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岩井の話では先に二階フロアへ顔を出したと言っていたから、てっきり香苗は今日は早番なのだと勝手に思い込んでいた。だから、社員食堂に入った時に、入口近くのいつものテーブルで今まさにお弁当を開けようとしていた同僚を見て、「あ!」と短い声を発してしまった。
睦美の驚く声が聞こえたらしく、扉に背を向けて座っていた香苗が振り向く。そして、同じように「あ!」と言った後、「あー、お疲れ様です」と言い直してくる。
「お疲れ様です。今日は早番かと思ってました。岩井さん、朝一で来られてたんですよね?」
「はい。うちの後に服飾へ行くっておっしゃってたんで、三好さんも結構早出だったんですね」
「ええ、まあ。岩井さん、いつも来るの早いから……」
話し掛けながら、睦美は空いている椅子へ持っていた休憩バッグを置いて、香苗の向かいの席を確保する。そして、小走りでカウンターへ並びに行き、今日の定食を注文した。今日は朝が少し早かったせいもあって、お腹は普段以上にペコペコだ。コロッケ定食はメンチカツとクリームコロッケが仲良く皿の上に並んでいて、小鉢の煮物は里芋と人参だった。給茶機でお茶を汲んでから睦美が席へ戻ってくると、香苗も横に置いていた箸箱をようやく開き始める。どうやらお弁当は食べずに待っていてくれたみたいだった。
「他のメーカーさんは午後から来られる方が多いんですけど、岩井さんだけは早いですよね」
「会社、近いですからね」
「予告してから来るだけマシなんでしょうけど……」
お互いに早上がりのパートさんばかりの売り場だから、社員だとどうしても遅番シフトが主になる。なのに営業担当の訪問に合わせて早く出勤すれば、それだけ店にいる時間が長くなるだけで、決して早く帰れる訳じゃない。だって本来は遅番で、パートさんが居なくなった後は一気に人手が足りなくなるのだから。
食堂に人がまだ多い時間帯だったこともあり、お喋りは売り場のことが中心だった。岩井からフォーマルでもブローチの話をされたと聞いていたから、そのことを振ると香苗の顔が分かり易く歪んだ。思い切り嫌そうな表情になっていた。
「あの人、最近はブローチが主流になりつつあるの、知らなかったんですよ」
「ええーっ、自分のところは扱ってないから?」
「……多分。でも、それって営業としてどうなんでしょうね」
「男の人だからってのはあるんでしょうけど、結婚してるんだから奥さんのとかも気にしたこともないってこと? 確か、お子さんは結構大きかったはずですよ」
学生結婚を何歳でしたのかまでは知らないけれど、年齢を考えても少なくとも中学生以上にはなっているはず。だとしたら、小中学校の卒入学で周りの母親達を一切気にしなかったってことなのか。睦美はこの仕事になってから、周りがどんなアイテムを使っているかが気になってしょうがないのに。一種の職業病だ。
睦美には社内でも話題に上がっている的なことを岩井は語っていたが、実際は先に香苗から聞いて初めて知ったばかりだったのだ。話を信じて真剣に相手していたのがバカらしくなってくる。
定食の付け合わせの白菜の浅漬けをボリボリ食べながら、早めに出てきた今朝の貴重な時間はどこで報われるんだろうと睦美は心の中で嘆いた。
デパートの一社員でしかない睦美達に、取引先メーカーの営業担当にクレームを入れたり、代えて貰えるほどの権限はない。どんなにいい加減で知識が乏しかろうが、ちゃんと売れ筋商品を納品してくれさえすればそれでいい。
周りのテーブルが徐々に空席が目立つようになった頃合いを見計らってか、香苗が声をやや潜めながら睦美へと聞いてくる。
「それで、あの、こないだのピアノのお姉さんのお話、考えていただけましたか?」
「あー……」
「あ、いえ、無理強いするようなことでないのは分かってるんです。でも、私としては是非にという気持ちなんですけど……」
睦美がよっぽど困惑した表情をしていたのか、香苗が慌てて手を横に振っている。
「いえ、決して柿崎さんがどうとかって問題じゃないんです。私、ピアノには良い思い出がほとんどなくて、ある意味トラウマみたいなのまであって……」
演奏しようとすると、ピアノ教師だった母の残像が頭を離れない。母が納得するようには弾けず、他所の子と比べては呆れた顔をされてしまう。完璧な演奏を披露できない自分には人前でピアノに触れることすら許されないような気さえするのだ。
この複雑で入り組んだ感情を何て説明すれば分かって貰えるんだろうと、睦美は緑茶がまだ半分残っている湯呑をじっと見つめる。円を描きながら揺れる水面に、天井の照明がぼやけて写り込んでいる。
「……そうですか。別にこちらは全然急いではいないので、もし気が変わったら教えてください。あ、連絡先をお聞きしてもいいですか? そう言えば、今まで交換したこと無かったなぁって、こないだ気付いたんですよ」
穏やかな笑みを浮かべながら、香苗が休憩バッグからスマホを取り出している。睦美も慌てて自分のを取り出すと、「なんか、今更って感じですけどね」と照れ笑いした。一緒の店で働くようになって二年、本当に今更だ。