家へ戻る道を歩きながら、結衣は胸の奥がじわりと重く沈むのを感じていた。花が置いていったものが、ひとつ、またひとつ増えていくたびに、
花という存在がこの世界から少しずつ薄くなっていくように思えた。
手の中のハンカチは、もう冷たく乾きかけていた。
なのに、握りしめると胸だけ熱くなる。
結衣は足を止め、夜空を見上げた。
雨雲の切れ間から、わずかに月が滲むように光っていた。
そのぼんやりとした光が、
今の花の姿と重なる。
「ねぇ花……どこにいんの……。」
小さく声に出すと、涙がまた溢れそうになる。
けれど泣くだけでは何も変わらない。
探さなきゃ。
探さなければ、もう二度と届かない。
結衣はスマホを開き、過去のメッセージをすべて遡った。
花がどんなことで悩んでいたのか。
どんな日に沈んでいたのか。
そのヒントになる言葉を必死で探す。
すると、ひとつだけ心当たりが引っかかった。
『海、また行きたいね あそこなら、
全部流れる気がする』
数週間前、花がそう言っていた。
結衣と花が初めて二人で行った海。
花が「ここなら息ができる」と微笑んだ場所。
胸がどくんと跳ねる。
そこだ。
きっと、あの海へ向かったんだ。
理由を考えるのは、怖かった。
その先にある想像をしてしまうと、
足が止まる。
でも行かないといけない。
走り出そうとしたその瞬間、スマホが光った。
また花から。
息が詰まりそうになる。
『結衣には綺麗なままでいてほしいよ。
うちのことなんてもう背負わなくていいか らさ』
返事の余地を与えないような言葉。
優しすぎるくせに、残酷な言葉。
まるで、
何かを終わらせる人の最後の手紙みたいだった。
「…いやだよ」
結衣はスマホを強く握りしめ、唇を噛みしめた。
どうして
どうして そんなふうに私を突き放すの
どうして 最後までひとりでいくの
震える体を無理に動かし、結衣は走り出した。
海へ向かう最終バスの時間は、もうあとわずか。
逃せば間に合わない。
花がどこかへ沈んでしまう前に、
絶対に追いつかないと。
夜風が涙を乾かすより早く、
結衣の足はアスファルトを打ち続ける。
息が荒くなってもいい。
痛くてもいい。
すべては花に追いつくためだから。
そのとき
信号の向こう側で、ふっと影が揺れた。
花によく似た後ろ姿。
濡れた髪。
細い肩。
夜の光で輪郭が滲んでいる。
「……花…?」
結衣の声は、夜気の中で震えながら溶けていく。
その背中は、一瞬だけ止まったように見えた。
けれど、振り向かない。
そして、ゆっくり歩き出す。
まるで——
結衣の届かない場所へ向かう人の歩き方だった。
結衣は必死にその影へ駆け出す。
手を伸ばせば届くかもしれない。
声を出せば振り向くかもしれない。
信号が赤に変わり、車のライトが結衣の前を遮る。
「花っ……!!」
その叫びは、車の音にかき消されて夜空へ散った。
少し先の横断歩道の向こうで——
花の影は、静かに闇へ沈むように消えていった。
結衣は震える肩を抱きしめながら、小さく呟いた。
「待ってて…
絶対に行くから…」
その声だけが、夜の街に優しく残った。
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