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第六話
「思い出すほど、君は遠ざかる」
記憶というものは、優しい顔をして牙を剥く。
思い出したい。
取り戻したい。
そう願った瞬間から、失う準備は始まっている。
その日の夜、星見坂町は珍しく曇っていた。
夏なのに、星が一つも見えない。
湿った風が、窓を小さく揺らす。
「……いた」
自分の部屋で、彼女は静かに立っていた。
最近では、もう驚かなくなっている自分が怖い。
「どうやって入ったんだよ」
「開いてた」
「嘘つけ」
彼女は、くすっと笑う。
でも、その笑顔は――
昨日より、明らかに薄かった。
「……座る?」
椅子を指す。
「ううん」
彼女は首を振る。
「座るとね、立ち上がるのが大変になる」
その言葉が、胸に引っかかる。
「……消えかけてる?」
彼女は、少しだけ考えてから答えた。
「正確にはね」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「思い出され始めてる」
「それって、良いことじゃ……」
「最初はね」
彼女は、窓の外を見る。
「でも、途中からは違う」
カーテン越しの街灯が、彼女の輪郭を曖昧にする。
「記憶って、完成すると“役目を終える”」
喉が、ひくりと鳴る。
「私は、“途中で止まった夏”だから存在できてた」
「……じゃあ」
声が、震える。
「全部思い出したら……」
彼女は、優しく微笑んだ。
「私は、いなくなる」
あまりにも静かな宣告だった。
翌日。
学校へ向かう坂道。
「……おはよう」
美咲の声。
並んで歩くのは、久しぶりだった。
「昨日さ」
彼女は、少し迷ってから言った。
「帰り道、ずっと考えてた」
「……何を?」
「恒一の“隣”にいる人」
胸が、締めつけられる。
「見えないのに」
美咲は、足を止める。
「確かに、そこに“誰か”がいる気がする」
彼女の勘は、やっぱり鋭すぎる。
「……怖くない?」
僕は、そう聞いた。
「怖いよ」
即答だった。
「でも」
美咲は、微笑む。
「それ以上に、悲しい」
「……どうして?」
「恒一が、遠くに行きそうだから」
その一言が、胸に突き刺さる。
「私はね」
美咲は、真っ直ぐ僕を見る。
「過去とも、幽霊とも、競うつもりない」
でも、と続ける。
「“今”を選んでほしいとは、思ってる」
それは、静かな告白だった。
派手じゃない。
でも、逃げ場がない。
「……ごめん」
それしか、言えなかった。
美咲は、少しだけ目を伏せた。
「うん」
短く、そう返した。
昼休み。
屋上。
澪が、フェンスに凭れていた。
「思い出した?」
開口一番。
「……少し」
答えると、澪は眉をひそめる。
「それが、一番危ない」
「……どういう意味だ」
「全部思い出す前に、感情だけ戻る」
風が、強く吹く。
「そうなると」
澪は、はっきり言った。
「未練だけが残る」
その言葉が、重くのしかかる。
「じゃあ、どうすればいい」
澪は、少しだけ視線を逸らす。
「二択」
「……二択?」
「完全に思い出して、手放すか」
間。
「最初から、思い出さないか」
世界が、ぐらりと揺れた。
「……それ以外は?」
「ない」
澪は、冷たく言う。
「中途半端は、全員壊れる」
放課後。
灯台公園。
海は、鈍色だった。
「ここ、覚えてる?」
彼女が言う。
「……ああ」
少しずつ、記憶が蘇る。
砂浜。
ラムネ。
転んで、泣いて。
手を引いて――
「……名前」
喉の奥まで、来ている。
でも、出てこない。
「無理しなくていい」
彼女は、微笑む。
「今日は、ただ歩こう」
並んで歩く。
影は、もうほとんど一つだった。
「ねえ、恒一」
彼女が、立ち止まる。
「私ね」
少し、照れたように。
「あなたの“初恋”だった」
胸が、強く脈打つ。
「知ってた?」
「……いや」
「そっか」
彼女は、笑った。
「じゃあ、今知れてよかった」
その瞬間。
記憶が、弾けた。
夏祭り。
花火。
はぐれて、泣いて。
名前を呼んで――
「――――」
声にならない。
彼女の名前が、確かにそこにあった。
でも。
「……だめ」
彼女は、首を振る。
「今、呼ばれたら」
一歩、後ろに下がる。
「私は、行かなきゃいけなくなる」
「……嫌だ」
初めて、はっきり言った。
「いなくなるな」
彼女は、少しだけ驚いた顔をした。
そして――
とても、嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
その笑顔は、
もう、夏そのものだった。
「それでね」
彼女は、最後に言う。
「選んで」
過去か。
今か。
それとも――
そのどちらも失う覚悟か。
曇った空の向こうで、
見えない星が、確かに瞬いていた。