テラーノベル
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第二十九章 ドアノブに残したもの
波の音が遠ざかる。
頰を撫でる温かい風に、覚えがある。
ゆっくりと目を開けると、そこは、いつものホテルのロビーだった。
ロビーから見た外の景色は、真っ暗で、夜になると音が遠くなり、静まり返ったロビーに残されたのは暖炉の音だけ。
心が崩壊するように、薪がパキパキと燃え、ガサッと落ちる音が暖炉に響いた。
ソファから起き上がり、蓮の部屋を目指した。
今は何時だろうか……
ドアベルを鳴らす手が震えた。
ここにくるまで誰とも目が合わなかった。
まるでそこに存在していないみたいに。
――確かに音は鳴っている……筈なのに中からの応答はない。何度か押したドアベルの指が力なく床に向けられた。
「You come home late these days.」
隣の住人だろうか?蓮が最近帰りが遅いことを教えてくれた。廊下から見える東の空から薄っすらと光が差し込み、朝を告げる。
行き場を失った俺は、再びロビーのソファに座って蓮を待った。暫くすると、現地スタッフだろうか、長身の男性と仲睦まじい様子で帰ってきた蓮に、慌てて立ち上がると声を掛けようと一歩前へ踏み出した。
俺の存在すら、そこに無いみたいに風を切ってスッと通り過ぎた蓮は、慣れたようにフロントで鍵を受け取ると、見知らぬ男性とエレベーターホールへと消えていった。
蓮だけは大丈夫だと、どこかで思っていた。
だって、絶対気付くって言ったよね?
あっ絶対だなんて……言ってないね。
もう、ここに居る理由も、居たい理由もなかった。
呼吸が苦しくなる感覚があって、寒空の下に飛び出した。
止まっていたタクシーの扉を叩いて飛び乗ると、向かった先の景色は、変わらずそこにあった。
窓の向こうに広がる湖は、昼間より深く、静かだった。
青だと思った。
でも、よく見るとそれは空の色で、
湖そのものは、ただ映しているだけのようにも見える。
「きれいな色ね」
隣から、やわらかな声がした。
振り向くと、白いマフラーを巻いた女性が立っていた。
その少し後ろで、背の高い男性が静かに景色を見ている。
「青、ですよね」
そう言った瞬間、女性は少しだけ首を傾げた。
「そう見えるのね」
否定でも、肯定でもない声だった。
「また会ったわねcutie boy」
いつかの、素敵な老夫婦だった。
「俺が見えるの?」
「ちゃんと見えてる……まだね。怖い?」
「いえ、いいんです。自分で選んだから」
「大事な人はそれでいいって言ってるのかしら?逆の立場なら、貴方はどうする?」
俺はその問いには答えられない。もう引き戻せないところまで来てしまった。自分のエゴで受け入れた代償はあまりにも大きくて、
「湖はね、空の色を映しているだけなの」
「……そうですね」
「だからね、自分の色を持っているわけじゃないのよ」
少し笑って、女性は続けた。
「でも、映している間は、ちゃんと青でしょう?」
胸の奥が、わずかに波打った。
後ろにいた男性が、初めて口を開く。
「映すのをやめたら、何色になると思う?」
答えられなかった。
「あなたは、何を映しているの」
胸の奥に、かすかな重みを感じた。
冷たかった指先が、少しだけ温度を取り戻す。
胸の奥に、水が戻る音がした。
湖は、誰の色でもなかった。
それでも、映すことをやめない。
なら、俺は。
何を映す。
湖面に、朝の光が差し込んだ。
そこには、確かに色があった。
朝の光が、まぶしくて目を細めた。
さっきまで隣にいた老夫婦の姿は、もういなかった。
足元には、自分の影だけが伸びている。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面には、グループのメッセージ。
〈今日のリハ、どうする?〉
〈体調どうなんだよ〉
〈返事しろ、バカ〉
亮平の短い言葉のあとに、ファンからの通知が並んでいた。
昨日の投稿についた、無数のコメント。
“待ってる”
“青が好き”
“あなたの声が必要”
喉の奥が、熱くなる。
湖は、空を映していた。
俺は、何を映してた。
蓮だけじゃない。
俺は、あの光も、あの声も、ちゃんと受け取ってた。
指が、自然と動く。
「少し待ってて」
送信。
それだけで、胸の奥の水がもう一度揺れた。
⸻
タクシーの車内。ジャケットを、ずっと抱えたままだったことに気づく。
まだ温もりが残っている気がして、
無意識に指が布地を握る。
これでもかってくらいにジャケットを抱きしめた。
蓮の匂いの温もりがそこにはあった。〝苦しいよ翔太〟って笑った蓮の笑顔が頭をよぎった。
蓮の部屋の前の廊下は静かだった。
ノブに手をかける勇気は、ない。
きっと中にいるであろう、蓮の音跡を探して伸ばした左手が震えた。彷徨った手が拳に変わって代わりに、
ジャケットをそっとドアノブに掛ける。
重みで、金具が小さく鳴る。
その音がやけに大きく響く。
チャイムは押さない。
触れない。
ただ、布地を最後に一度だけ撫でる。
「……返すね」
別れじゃない。
ただ、いったん手放すだけ。
振り返らないで歩き出す。
「Airport, please.」
自分の声が、驚くほど落ち着いている。
逃げるためじゃない。
確かめるためだ。
青が戻るのを、待つんじゃない。自分で潜る。
空港の自動ドアが開く。
朝の匂い。
チケットカウンターの前で、一瞬だけ立ち止まる。
ここで選べる。
戻ることも。消えることも。
「一番早い便で」
係員が何かを尋ねる。
聞き取れない単語が混じる。
行き先を聞かれているのだと分かるのに、
喉がうまく動かない。
後ろに並ぶ人の気配。焦りで、視線が揺れる。
そのとき。
カウンター脇のポスターが目に入った。
鮮やかな青。眩しいほどの水平線。白い波が光を弾いている。
湖の青とは違う。
そこに映っていたのは、何も映していない青だった。
そう、感じた。
“Special Fare to the Coast”
英語は、全部は読めない。
でも、写真は分かる。
指が、ゆっくりとそこを指した。
「……これで」
係員が頷く。キーボードの音。発券の音。
小さな紙が差し出される。その青は、まだ遠い。
でも確かに、そこにある。心臓が、静かに打っていた。
チケットを握った手。微かに蓮の香りがした。
〝大丈夫、僕が付いているから〟
いつかの蓮の言葉――
一人で立つ搭乗口。
呼び出しのアナウンスが、遠くで響く。
チケットを握ったまま、息を吸う。
「大丈夫」
声に出してみる。
誰の声でもない。
俺の声だ。
一歩、踏み出す。
もう、振り返らなかった。
コメント
3件
行きは瞬間移動だけど、帰りはいちいち✈️なのか、、、🤔片道魔法🧙