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#ワンナイトラブ
深夜のCEOルーム
窓の外では眠らない街の灯りが星屑のように瞬いているが、この部屋の空気は凍りついたように重い。
私の目の前、重厚なデスクの上に置かれた一枚の書類には、あまりにも現実離れしたタイトルが記されていた。
『専属配偶者契約書』
私は震える手で眼鏡のブリッジを押し上げ、そこに並ぶ歪な条項に目を走らせる。
一、契約期間は一年とする。
二、対外的に「仲睦まじい夫婦」を完璧に演じること。
三、同居を必須とし、生活費の全額は甲(京介)が負担する。
ここまでは、ある種ビジネスライクな「偽装結婚」の範疇だといえる。
秘書として培ってきた演技力と管理能力を駆使すれば、遂行可能な任務だ。
しかし、私の視線は最後の一行で完全に凍りついた。
四、夫(甲)からの身体的接触、および夜の営みを正当な理由なく拒否してはならない。
「……社長。この、四項目めは。……何かの冗談でしょうか」
乾いた声が、静まり返った部屋に虚しく響く。
「俺は仕事で冗談を言った記憶はないが?」
京介様はソファに深く腰掛け、窮屈そうにネクタイを緩めながら冷淡に言い放った。
その視線は、まるで提出された書類の不備を淡々と指摘するかのように
私の唇から、露わになった首筋へと執拗に這い上がってくる。
「周囲に真実味を持たせるには、心身ともに馴染む必要がある。新婚夫婦が寝室を別にしているなどという疑われる隙を作れば、この巨大な契約は失敗に終わる。君もプロならわかるだろう?」
「それは、理屈ではそうかもしれませんが……。私はただ、祖母を安心させるために『形だけ』の結婚を、と……」
「形だけで俺の妻が務まるほど、世の中は甘くないぞ、氷室」
京介様が立ち上がり、音もなく私の背後に忍び寄る。
逃げようとした肩に、大きな手が置かれた。
指先から伝わる体温が、皮膚を通して心臓を直接掴むような錯覚に陥る。
彼は私の耳元に顔を寄せ、低く、けれど決して逆らえない響きで囁いた。
「君は、祖母を救うための『対価』を払う覚悟があると言った。……それとも、今すぐこの紙を破り捨てて、冷たい病院の廊下へ戻るか?」
私は強く唇を噛んだ。
脳裏に浮かぶのは、病室で小さくなった祖母の穏やかな笑顔。
それを見守るために、自分は何を差し出せるか。
何を売れば、彼女の願いを叶えられるのか。
答えは、最初から一つしかなかった。
「……わかりました。サイン、いたします」
重い万年筆を握り、自らの名前をゆっくりと刻む。
インクが紙に染み込んでいくその瞬間、私は「有能な秘書」という唯一のアイデンティティを脱ぎ捨て
彼の「所有物」へと成り下がった気がした。
「賢明な判断だ。……では、さっそく『役作り』を始めようか」
京介様の長く節だった指が、私の夜会巻きに触れた。
ピンが一本、また一本と容赦なく外されていく。
きつくまとめられていた私の髪が、支えを失って重力に従い
肩へと、背中へと、奔放にこぼれ落ちていく。
「あ、社長……っ」
「『京介』と呼べ、志乃」
突然名前を呼ばれた衝撃。
それと同時に、視界を守っていた眼鏡を奪い去られた。
少しだけぼやけた視界の中で、目の前にいる男の輪郭が
上司という記号を超えて一人の「雄」として圧倒的な熱量を持って迫ってくる。
京介の指が、私の顎を強引に掬い上げた。
逆光の中で、その瞳が獲物を仕留めた獣のように鋭く光る。
「まずは、その固すぎる態度から矯正していく必要があるな。……午前0時を過ぎたら、俺の秘書じゃない。従順な、俺の妻だ」
重なる影。
オフィスに響くのは、壊れそうなほど速く打つ、私の早鐘のような鼓動だけだった。
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