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そのころ、思いの丈を吐き出した守恵子《もりえこ》は、じっと、池を見つめていた。
親分猫に、言われた事が、正解だと、思った。
心が乱れたのは、いつも側にいた、紗奈姉様《さなねぇさま》が、いなくなる、かもしれないから。
もしも、一人になったら、いや、一人になることなど、考えたこともなったから。
「……でも、上野にも……何か事情があるから、なのだわ。だから、それを、私が、止めては……」
しっかりしよう、と、守恵子は思う。自分は、大納言家、それも、羽林家の姫なのだから。
「そうよ、上野が、安心して、国へ帰れるように、送り出してあげないと……」
守恵子は、決意を新たにし、立ち上がろうとした。
しかし、座る時は、釣り殿の際《きわ》へ、腰をストンと下ろせば良かった。が、いざ、立ち上がるとなると……。
「えっ?!あ、嘘っ!!」
体は、衣の重みで自由がきかない。
ふらついた守恵子は、そのまま、釣り殿から転がり、池の中へ、ドボンと落ちてしまう。
這い上がろうと、守恵子は、手足をばたつかせたが、動けば動くほど、衣が邪魔をして、池の底へ引き込まれるかのように、沈んで行く。
たかが、池と、あなどってはいけない。二十人は乗れる舟を浮かべ、舟遊びが出来る造り。それだけ、深さも十分にある。
「……だ、だれ、か……」
叫び、助けを呼ぼうと声を上げると、水を飲んでしまう。たちまち、息ができなくなり、守恵子は、静かに沈んで行くだけだった。
最後のあがきとばかりに、うっすらと見える、水面を照らす、日の光りへ、守恵子は手を伸ばした。
しかし、その指先は、冷たい池の水の中を掻くだけだった。
──は、母上……。
守恵子の意識は、途切れようとしていた。
その時。
「ご免!!!」
誰かの声がして、手首を掴まれ、衣紋《えり》が、引っ張られた。
勢い、余計に苦しくなったが、何か体が軽くなっていくような気がして……。守恵子の意識は、完全に途切れた。
一方、守満《もりみつ》は──。
「ですから、かようなことを仰せられずに、私どもの牛車《くるま》を、お使いくださいませ」
いらぬお世話。このまま進む。と、乗り込んでいる女主のお付きであろう、女房に、車の中から、申し出を断り続けられていた。
「全く!なんですかっ!」
紗奈《さな》が、いきり立った。
「おお!紗奈が、歩んで行くぞ!おばちゃん方、これは、どちらが勝つと思いまするか?!」
交渉に四苦八苦の守満に、業を煮やした紗奈が、動いた。
車の後ろ簾から顔を覗かせ眺める守近に問われ、そうだねぇ、なかなか手強そうだよ、守近様、と、おばちゃん達が、見守っている。
「やっぱりさぁ、ここは、大納言様の出番じゃないのかい?」
「そうだよ、天下の大納言様だよ?相手も、従うさ」
「あー、いつのまにやら、出世して、あたしらの手の届かない所へ行ってしまわれて……」
はあああーーーー、と、なぜか、おばちゃん達は、顔を付き合わせ、ため息をついた。
「おやおや、おばちゃん方、もしや、その憂いは、この守近のせいでしょうか?」
あーそうーさ、この都一の色男があぁあーーー!!
怒濤のような叫びにも、守近は、平然とし、
「それじゃ、そろそろ、私の出番ということで」
などと、飄々と言い放つと、牛飼いに、沓《くつ》の用意を言い付けて、牛車《くるま》から、降りる準備にとりかかった。
一言に、牛車へ乗り降りすると言っても、車は、後ろから乗り、前から降りるという決まり事がある。
その為、降りるとなると、牛と車を離し、踏み台を用意し、なかなか、手間がかかるのだ。
それが、女人ならば……そして、往来で、行うならば……。
確かに、相手方が渋るのも頷けるが、壊れかけた車輪では、到底、目的地へ着けるはずがない。
屋敷から別の牛車を運んで来たとしても、けっきょく、乗り移らなければならず、その間、このまま、で、いるのも……。
こちらの車へ乗り換えて、先へ行かれ、元の牛車は、お屋敷へ皆で押し運ぶと、守満は、言い続けているが、当然、野次馬は増え、そして、野次も飛ぶ。
「えーーい!野次馬!うるさいっ!そこっ!検非違使につかまりたいのかっ!」
紗奈が野次馬へ向かって、叫び、続いて、車の車輪の具合を見ている、髭モジャを見た。
「女童子よ、ワシは、もう、検非違使じゃないのだがのお?」
「えーと、ほら、もう一人、いたじゃない!」
紗奈があたりを見回して崇高《むねたか》を探した。
「あっ、崇高様!出番のようですよ!」
常春《つねはる》の後押しに、おお!と、崇高も、紗奈へ、良い顔を売れると張り切り、荷車を引き近寄って行った。
「いや、荷車は、私が見ておりますのに、わざわざ、引いていかれなくとも……」
「常春や、その、わざわざを、行ったのだがねー、なんだか、私の出番じゃないようなのだけど?」
車から降りた、守近が、誰も相手にしてくれないと、常春に絡んで来た。
「え?!守近様!車よりお降りになられたのなら、お早く、私どもが乗って来た、馬へお移りください!」
ここは、都の往来。庶民が行き交う場所。公達、それも、大納言ともあろう者が、突っ立っている所ではない。
常春は、焦り、守近を促した。