馬屋原先生はのんびりとした動作で椅子から立ち上がると、わたしたちの方へ身体を向けて柔らかい笑みを浮かべたままで、
「どうしたんだい? そんなバカみたいな顔してないで、さぁ、こっちに来なさい」
けれど、シモハライ先輩も榎先輩も、馬屋原先生を見つめたまま、微動だにしなかった。
ふたりの表情を横目に見ると、眉間に皺を寄せ、難しい表情で、
「先生が、僕たちをこの夢の中へ連れてきたんですね」
「そうだね」
「いったい、何のために」
「何のために、か」
言って馬屋原先生は顎を擦りながら、
「……僕はね、その昔、魔法を使って新たな生命体を作り出す研究をやっていたんだよ」
「あ、新たな生命体?」
なに、それ。どういう意味? それとこれと、どういう関係があるわけ?
「そう、いわば、神の真似事だよ。ほら、魔力というものは世界中の至る所、あらゆるものに宿っているだろう? 月には月の魔力、虹には虹の魔力、人には人、風には風、土には土、光、闇、草、木、動物、岩、水、何にでもね。つまり、魔力というものは万物を形成する基礎の一つということだね」
そこで馬屋原先生は一度言葉を切り、わたしたちの顔をニコニコしながら見渡して、
「ならば逆に、魔力を用いれば新たな生命を創造することも可能なんじゃないか、と僕は考えたわけだ。魔力を自由に扱える魔法使いには、それが可能だと僕は思ったんだ。
けれど、当然ながらそれはなかなかうまくいかなかった。失敗に次ぐ失敗、その連続さ。そんななか、わたしは偶然にも夢の中で、新たな生命の核といえるものを発見したんだ。それはとても小さくて、揺らいでいて、僕がその魔力を整えてやらなければ、あっという間に離散してしまいそうだった。そこでわたしはその核に、形を与えてやることにした。器、と言えばいいのかな。それまでの研究で作り上げた、肉体の代わりとなる小さな球体。その中に核を入れ込んでみたのさ。するとどうなったと思う? 核は自ら意思を持ち、行動を始めたんだ。わたしはついに新たな生命体を創り出すことに成功したわけだ。その生命体は魔力そのものを糧として生き、ただしその生息は人の夢の中に限られた。それでも新たな生命体を創り上げたことに変わりはない。嬉しかったねぇ。夢の中でしか生きられないとはいえ、ついに新たな生命体を創り上げるのに成功したんだから、当たり前だよね。けれど、問題が一つあった」
「……問題?」
シモハライ先輩の問いに満足したように、馬屋原先生はにやりと笑みを浮かべて、
「言っただろう? 魔力そのものを糧として生きるって。生命体である以上、何かを食って生きていくことになる。どこからかエネルギーを得なければならないだろう? その食い物が、魔力そのものだったのさ」
「それって」
榎先輩が小さく呟いて、馬屋原先生は得意げに頷いた。
「そう、魔法使いの魔力だよ。そいつは――その新たな生命体――君たちの呼ぶところによる夢魔は、魔法使いの夢を介して移動して、次から次へと魔法使いを襲い、魔力を喰らい始めたんだ。いやぁ、あの時は驚いたね。次から次へと夢魔は魔法使いを襲い、多くの魔法使いが命を落とした。そのたびに夢魔は成長して、より多くの魔力を求めて夢の中を渡り歩いて――けれど僕は、その先にある夢魔の成長に興味があったんだ。解るだろう? 夢魔は僕が創り出した、いわば僕の可愛い子供なわけだ。親が子の成長を楽しみにするのは至極当然のこととは思わないか?」
ふひひ、と馬屋原先生は笑い声を漏らし、
「多少の犠牲はやむを得ない。生命が生きていく為に、他の命を奪っていくのは自然の摂理。僕は夢魔が成長していく姿を見るのが楽しくて仕方がなかった。それなのに、だ。とある赤ん坊が事態を一変させた」
「赤ん坊?」
「楸真帆さ」
馬屋原先生はため息を一つ漏らして、
「赤ん坊は、ある意味でまっさらな状態であり、全てを吸収していく生き物だ。あらゆるものを吸収して成長し、大きく育っていく。楸真帆は夢を介して夢魔の前に現れ、事もあろうか、夢魔を飲み込んでしまったんだ。僕は、僕の可愛い夢魔を、楸真帆に食われた事実に驚愕し、激怒し、けれど同時に、楸真帆という存在に興味を覚えた。あれだけの成長を遂げた夢魔を、あんな小さな存在が一気に飲み込んだんだ。それはそれで面白いとは思わないか? 僕はそれからずっと、楸真帆という存在を監視し続けてきた。楸真帆の祖母はそんな真帆を恐れて、最初こそ魔法使いの道を進ませようとはしなかったが、しかしやはり魔力あるモノはその道を自ら選ぶ。楸真帆は魔法使いになる道を望み、選び、強大な魔力を内に秘めながら常人のような生活を送っていた。昨年まではね」
「それ、どういうことですか?」
「解っているだろう? 君と付き合い始めたことによって、楸真帆の中に大きな変化が生まれたのさ。彼女の精神が安定と不安定を激しく繰り返し、それに伴い、夢に再び夢魔が現れるようになったんだ。つまり、楸真帆の中で眠っていた夢魔が、殻を破るかのように、彼女の中から覚醒し始めたというわけだ。そしてそれはここ数日で最も顕著になり、そのきっかけは」
と馬屋原先生はわたしを指差しながら、
「――君だよ、鐘撞葵さん」
「わ、わたし?」
なんで、どうしてわたしがそのきっかけになるわけ? わたしがいったい、何をしたって言うの?
「そう。もともと楸真帆は下拂くんと付き合うようになり、初めての恋に彼に依存するようになっていた。その為に、彼女はいつか下拂くんを失ってしまうんじゃないか、誰かに取られてしまうんじゃないか、そんな不安におびえるようになっていったんだ。そんな時、君は下拂くんと親しげに登校し、彼女の前にその姿を晒してしまった。それがきっかけさ」
そんな、そんなことで……?
「それが原因で、楸真帆の精神は激しく揺らいだ。それによって、今まで彼女の中でまどろんでいた夢魔が覚醒したんだ。僕はこれをチャンスだと思った。そこで僕は考えた。キミたちの魔力を生け贄にして、楸真帆の中で眠っていた夢魔を、今度こそ完全なる姿へと昇華させることができると思ったんだ」
「生け贄? あたしたちが?」
榎先輩は言って、一歩後ずさった。
「すでに魔法協会の連中が動き出している。時間はない。この意味、解るよね?」
にっこりと微笑んで、馬屋原先生は首を傾げた。
それに対して、シモハライ先輩は拳を強く握りしめながら、
「……真帆は、どこですか」
その問いに、馬屋原先生はくつくつとおかしそうに笑って、
「どこって、ほら、さっきからすぐそこにいるじゃないか」
くいっと顎で部屋の隅を示して見せる。
そちらの方へ視線を移せば、そこにはぼんやりとした黒い影が蹲っていた。
「ひっ」
反射的にわたしは悲鳴を飲み込み、榎先輩の後ろに隠れる。
――夢魔。
そこに居るのは、楸先輩の姿をした夢魔そのもので。
「真帆」
それなのに、シモハライ先輩はその夢魔を目の前にして楸先輩の名を呼んだ。
え、どういうこと? あれ、夢魔じゃないの? 楸先輩なの? どこからどう見ても夢魔そのものじゃない! 確かにぼんやりと見える姿は楸先輩のそれだけれど、顔を見ればぐるぐると黒い渦を巻いていて、今にもわたしたちから魔力を奪い取ろうと襲い掛かってくるんじゃないか、そんな恐怖をわたしは覚えた。
夢魔はシモハライ先輩の声にぴくりと身体を震わせると、すっと顔を上げてわたしたちの方に顔を向けた。
「……」
無言のまま、夢魔はじっとわたしたちの姿を(どう見ても目なんてないのだけれど)睨みつけるようにじっと見つめて、すっと腰を上げ、ふらりとわたしたちのほうへ一歩踏み出してきた。
「に、逃げなきゃ!」
わたしは思わず言って、榎先輩の袖を引っ張る。
けれど、榎先輩は首を横に振って、
「……どこに?」
「えっ」
言われて後ろを振り向けば、そこにあったはずの通路はなくなっていて、右も左も前も後ろも、どこにも逃げられそうな出口なんてなくなっていた。
「なんで、どうして……!」
わたしは榎先輩の腕をぎゅっと抱きしめ、思わず涙を浮かべていた。膝ががくがくと震え、手足の先から感覚が徐々に失われていくのを感じる。泣き叫びたいのにそんなこともできなくて、ただただシモハライ先輩と対峙する夢魔から目が離せなかった。
夢魔は襲い掛かってきそうな雰囲気もなく、また一歩、わたしたちの方へ足を踏み出して、
「――えぇ?」
夢魔の姿が吊るされた裸電球に照らし出された瞬間、ぐるぐると渦を巻いていたその闇が消え去り、そこに現れたのは楸先輩の顔だった。
楸先輩は半目を開けてぼんやりとシモハライ先輩を見ていたが、不意にわたしたちの方に視線を寄越すと、
「……どうして、あなたたちがユウくんと一緒に居るんですか?」
急に眼を大きく見開いて、そう訊ねてきた。
その瞳は黒ずんだ虹色に輝いていて、
「わたしのユウくんと、こんなところで、何をしているんですか?」
語気を強めて、わたしたちの方へ身体を向けた。
そんな楸先輩に対して、馬屋原先生は何が面白いのか、ふひひっと下卑た笑い声を漏らしながら、
「浮気、じゃないかなぁ」
「……浮気?」
楸先輩はその言葉を耳にした途端、明らかな敵意を剝き出しにして、
「そうなんですか?」
わたしや榎先輩を睨みつけながら、低い声で、そう訊ねた。
それに対して、シモハライ先輩は激しく首を横に振りながら、
「ちがう、そんなんじゃない」
否定したけれど、「じゃぁ」と楸先輩はさらにたたみかけるように、
「なんで、わたしを置いて、そのふたりと一緒に居るんですか?」
「それは」
言いかけるシモハライ先輩の答えなど聞く気もないのか、楸先輩はわたしたちに、
「あなたたち、わたしからユウくんを奪うつもりですか?」
「え、ち、違」
言い終わらぬうちに、楸先輩はまた一歩足を前に踏み出して、
「もしそのつもりなら、あなたたちを殺して、わたしも死にます」
その瞬間、ダッと地を蹴って、わたしたちの方へ襲い掛かってきた。
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