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第三十一章 輪郭
海に入った瞬間、世界の輪郭が変わった。
音が、変わった。
呼吸の音だけが、頭の中で反響している。
泡が、上へ逃げていく。
下は、暗い。
どこまでが海で、どこからが空だったのか、もう分からない。
水に包まれて、音が遠のいていく。聞こえるのは、自分の呼吸だけ。ごぽり、ごぽりと、胸の奥で確かめるみたいに鳴る音。
足を動かす。
それだけで、体が前に進んだ。
誰かに引かれたわけじゃない。
背中を押されたわけでもない。
自分で蹴って、自分で沈んで、自分で浮かんでいる。
その事実が、胸の奥で小さく光った。
見下ろすと、青が広がっていた。
でもそれは、ひとつの色じゃない。
光を含んだ水色から、群青へ。
少し潜るたび、海は静かに色を塗り替えていく。
同じ青のはずなのに、視線を動かすたび、まるで別の海みたいに表情が変わる。
やわらかな青も、影を抱いた青もあって、そのどれもが、今の俺には新しかった。
胸が、ふっと軽くなる。
でも世界は、こんなにも広かった。
こんなにも違っていて、
それでも全部、青の中に在る。
魚が視界を横切った。
光を弾いて、尾を揺らして、迷いなく進んでいく。
その姿を見て、俺ももう一度足を動かした。
体が前に進む。
進める。
肺がふくらんで、縮んで、体がゆっくり浮いた。泡が指先をすり抜けていく。
気づいたら、俺は手を伸ばしていた。
掴みたい何かがあったわけじゃない。
ただ、この青の中に、自分の輪郭を残したかった。
水の抵抗が、ちゃんとそこにあった。
冷たさも、流れも、確かにあった。
俺はここにいる。
そう思った瞬間、胸の奥が、じんわり温かくなる。
でもそれは、ひとつの色じゃない。
光を含んだ水色。
深く沈む群青。
ほとんど黒に近い、静かな青。
――黒。
ふと、あの人の色がよぎる。
闇みたいで、でも一番深いところで支えてくれる色。
少し顔を上げると、海藻が揺れている。
揺れながらも、根は離れない。
――緑。
どんなときも、離れなかった色。
遠くで、小さな魚が光を弾いた。
一瞬だけ、鮮やかに。
――赤。
まっすぐで、強くて、あたたかい色。
気づけば、俺は全部の色の中にいた。
青だけじゃない。
黒も、緑も、赤も、
重なって、混ざって、
それでも濁らずに、ここにある。
俺は今まで、ひとつの色に縋っていた。
ひとつの場所に。
ひとつの温度に。
ひとりの人に。
……でも海は、教えてくる。
青は、ひとつじゃない。
色は奪い合わない。
重なっても、消えない。
ちゃんと、そこに在る。
胸が、ふっと軽くなる。
俺の青は、誰かに渡して消えるものじゃなかった。
誰かを選んだからって、
なくなるものじゃない。
選んだから失うんじゃない。
選んでも、残る。
ひとりだ、と思った。
でもそれは孤独じゃない。
自分で立っている、という感覚だった。
見上げると、水面の向こうで光が揺れている。
そこに向かって、また足を動かした。
そのとき、胸元で何かが揺れた。
ネックレス。
水を含んだ鎖が、鎖骨に沿って重い。
無意識に指先でたぐる。
指輪。
内側に埋め込まれた小さな石が、
わずかに光を弾いた。
海の青とは違う。
でも、確かに青だった。
ずっと、ここにあった。
なくしたと思っていたのは、
俺のほうだった。
指輪を握る。
重みがある。
重力が、戻ってくる。
――上へ。
少しずつ、でも確かに、世界が開けていく。
青は、まだ続いている。
知らない色が、まだある。
怖さより先に、知りたいが来た。
それが、嬉しかった。
俺は今、自分で踏み出した一歩で、世界を広げている。
そしてきっと――
誰かが言う。
「……綺麗だよ。
翔太の青。」
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これを読んでまず、アンミカが白は200色あるって話してたなーと思い出し、途中エヴァンゲリオンを通過して、帰って来ました。ザ・花凛WORLD。