本宮さんの左手には、少し大きめのカバンが握られている。私のところに泊まるための荷物だろう。
とにかく、もうそれからはずっと顔を上げられなかった。
電車が進むにつれ、だんだん顔も体も熱くなってきた。
次の駅まで3分くらいだろうか。
そうすれば、少しだけ降りる人がいるはず。
早く離れないと私の心臓の音が本宮さんに伝わってしまう。
もしかしたら、もう伝わっているのかもしれない。
さっきからずっと……
こんなにドキドキするのはなぜなの?
私は、一弥先輩が好きなんだ。
本宮さんにドキドキするなんておかしい。
だけど、今、こんな風にくっついているのがもし一弥先輩だとしたら……
きっと、私の心臓の音はこんなものでは済まない。
本宮さんだから、まだ耐えられている。
きっとそうだ、そうに違いない。
プチパニックに陥っている自分に本宮さんの優しい香水がフワッと香る。背中にある手から伝わる温もりも……私の胸をキュンとさせた。
もう、この感情の正体が不明過ぎて、さらにパニックになりそうだった。
本宮さんはずっと黙ったまま。
満員電車だから仕方ないけれど……
今、本宮さんは何を考えているのだろうか?
ほんの少しだけ知りたいと思ってしまった。
ようやく念願の駅に到着し、ドアが開いて、パラパラと乗客が降りた。
なのに、思っていたほどスペースが空かず、ほとんど体制は変わらなかった。
まだ本宮さんの右手が離れないまま、ガタンゴトンと音を立て、電車はゆっくりと動き出した。
いたたまれない状況は続く。
それでもほんの少しだけ顔をあげて見ると、周りの人達はみんな疲れているようで、下を向いて目を閉じていたり、暗くなった窓の外をボーッと眺めたりしていた。
私達を見ている人は……
たぶん、いない。
その時、本宮さんの手が背中から離れて、私の頭のところにきた。
えっ……
開いた大きな手で、私の髪をなでるように優しく触れた。本当に……優しく。
思ってもいなかった行動に一瞬ドキッとして、息が上手く吸えなくなった。
どうしてこんなことをするのだろう?
好きでもない私に……
本宮さんのあまりにも自然な手つきに、「この人は女性の扱いに慣れてるのだろうか」と思ってしまう。
そうか、本宮さんにとって、これは特別なことではないのだ。きっと誰にでも同じことをしている。
だけれど、不思議だ。
きっと、本宮さん以外の他の誰かにされたら嫌なことも、正直、嫌ではなくて……
なぜか、胸の鼓動がどんどん加速していった。
昨日、会ったばっかりの私に、こんなふうに優しくするなんて、本当に何のつもりなのだろう。
ううん、私にも本当はわかっている。
本宮さんは、社長から離れるために私をたまたま同居人に選んだ。
一人暮らしで彼氏のいない私を――
ただ都合の良い女を選んだだけ、誰でもよかったんだ。
社長に、結婚するなんて嘘まで言って。
何だか……ひどいよ。
いろいろ考えていたら、とうとう降りる駅に着いた。
この駅は結構な人数が降りる。
空いたスペースから流れ出るように、私はすぐに本宮さんから離れて脱出した。
ぎゅうぎゅう詰めの車両から解放され、ようやくしっかり酸素が吸えた気がした。
いつもの何倍も長く感じた電車での時間。
こんな事は初めてだった。
「恭香、大丈夫だったか?」
「はい、大丈夫です。本宮さんは?」
「俺は平気だ。恭香はいつもこんな満員電車に乗っているのか?」
「そうですね。でも今日はいつもより少し多かったような気がします」
「……こんな満員電車……大丈夫なのか?」
「えっ?」
「だ、だから……大丈夫なのか?」
「……もしかして痴漢とかですか?」
「……ああ」
「それなら大丈夫ですよ。私なんかに痴漢しようと思う人はいませんから。痴漢は、美人な人か、可愛い人を狙うはずですから」
「だから……」
「えっ?」
「……いや、何でもない。とにかく絶対に気をつけるんだ。油断は禁物だ、いいな」
本宮さんは、真剣な表情で言った。
「は、はい。わかりました……。でも普段は結構、女性専用車両に乗ることが多いので大丈夫です。女性しか乗っていませんし」
「そっか……女性専用車両。それなら安心だな。1人の時は絶対に女性専用車両に乗ること」
「……はい」
「俺と2人の時は……俺がお前を守る」
その言葉に、一瞬で胸が撃ち抜かれた。
俺がお前を守る――
私の心臓はまたドキドキし始めた。
このセリフは、本当なら「本物の彼女」に言うべきだ。
なのに、なぜ?
本宮さんの考えていることが私にはわからない。
「……あ、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから、ちゃんと自分で気をつけます」
「行くぞ」
私達は、まるで何も無かったように改札を出て、マンションに向かって夜の道を2人、歩き出した。
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