足元にはすすり泣く者や相変わらず口汚く罵倒する者、懇願する者、既に意識を手放した者。
「今、ここを支配しているのは俺だ。俺はこのパン一つのためにここに来た。何故だ、わかるか?」
青年はしゃがみ込み手近な髭の貴族の頭に食べかけのパンを載せて問いかける。
「パンだと……? そんなもの欲しければいくらでも持っていけばいおぐふっ!」
網が限界を超えて締め上げて、そいつは肉片となってしまって周りに飛び散る。しかしパンは綺麗なままだ。
「支配の意味がわかっただろうか? 次はこちらの……お姉さん? 頑張って着飾っただろうに化粧がもう大変な事になっているお姉さん。聡明そうなお姉さんになら、分かってもらえるかな?」
顔まで縫い付けられ横顔しか分からないその頬にパンを載せて問いかける。
「た……た、たすけて。何でもする……だから……痛いの。足が痛くて、もうお願い……だから……」
「悪いな。先約があるんだ。そちらが片付いたら聞いてあげてもいいから──地獄で祈り続けていろ」
フードの中を覗いた女は小さな悲鳴をあげて床に散らばった。
「あぁ、こんなことをしても何も晴れないな。端から順番でいいや、死んでいけ。嫌なら答えてみろ」
部屋の隅に近いところから死体が増えていく。這いつくばる者たちに分かるのは悲鳴と舞う血しぶきに混ざる肉片が何なのかということくらい。口々に叫べども、青年の求める答は出てこない。
警備の者たちは扉の外からこの異様な惨劇を眺めていることしかできない。いや、その前に何人かが手に持っていた武器を青年目掛けて投げたり、魔術による攻撃を仕掛けたりしたが、躱されて雇い主たちの悲鳴を増やしただけとなって、しかし踏み込む勇気もなく立ち尽くしているのだ。
「答えてみろ」
青年の顔を覆う影は次第に濃くなって闇となり漏れ出る。
悲鳴があちこちから聞こえて、液体か固体かも分からない飛沫の花が咲き乱れる。
「答えてみろ」
だが既にこの会場に生きているものは青年のほかには居なかった。
ヒタヒタと注意深く近づく足音がする。青年はそちらを見ずとも、それが敵ではないことに気づいている。やがて足音は青年の横でとまり
「泣いているの?」
そう問いかけてきたのはここで給仕をしていた子どもだ。ヒト種の、奴隷。
その奴隷は口から血を吐いて青年にぶつかる。青年の腰に痛みが走る。
見ると奴隷の背中に槍が突き刺さってその先が青年にも届いていた。
奴隷に気を取られたところを、諸共串刺しにしようと魔術で無理やりそうさせたのだ。奴隷少年は「ごめんね……」と呟いて事切れた。
「やれ! 今なら何も気にする事はない! やるんだっ、奴隷は突撃しろぉっ!」
魔術が、槍が剣が飛ぶ。奴隷はその自由を奪われて部屋に入ろうとしている。泣きそうな絶望の顔で。
青年は網を解除して自身に集める。
濃くなる黒い闇。次第にそれは青年を黒い闇のシルエットにしてしまい武器も魔術も突き刺さって溶けて無くなった。
闇は先ほど奴隷少年を串刺しにした警備員の目の前に現れた。いつ、と認識する間も無く。
「お前には慈悲はいらないな。その身に地獄を受け止めろ。ペイン」
その声は先ほどまでとは違う低くドスの効いた声で、現れた闇は憤怒に染まったかの様な濃密なもので、その手には死んだ奴隷少年を抱えていた。
青年の魔術を受けた警備員は、全身に焼ける様な熱さと体内を虫が食いちぎり這い回る様な痛み、内臓を鷲掴みにされるような苦しみを受けて、そのくせ正気を保ったまま、死ねない。そんな状態にされて1週間を生きたのち、死んでしまった。
その警備員の苦しむ姿に恐れを成した連中を置き去りにして、青年は会場に突入した奴隷たちとともにいつの間にか姿を消していた。
解放された奴隷たちはその身にかけられた魔術が消えている事に感覚で気づいた。そして今いるのは王国の貧民街。夜中に起きてる人は少なく、自分たちに気づく人もない。
あの襲撃者は既にここにいない。というより自分たちは気づけばここに居たのだ。
青年は王国の外で墓を作っていた。王国から東に行ったところにある畑の近くでとても見晴らしのいい丘だ。夏らしく緑一色の綺麗なところだ。
「俺にも流石に生き返らせる事は出来ない。だから今はこれで我慢してくれ」
青年は酒を取り出し作ったばかりの墓に注ぐ。墓を中心にそれは広がる。
「せめて安らかに……そしていつか生まれ変わったなら会いにきてくれると嬉しい。俺の名は真神。真神希墨だ」
そしてキスミは花の咲き乱れる丘をあとにした。