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🍽 みりん亭 第10話「いまも誰かが、ひとくち目」
──その日、みりん亭には誰も来なかった。
暖簾は揺れず、ホログラムの予約画面もなにもないまま。
カウンターには、まっさらな木目の光がゆれていた。
くもいさんは、いつもと同じように立っていた。
濃い灰の和装に、薄い水引の帯。
今日は髪を少しだけ下ろし、横に流して結っている。
その姿は、まるで人が来ないことに慣れている誰かのように、完成された静けさをまとっていた。
「……今日は、完全な空席、ですね」
つぶやくように言ったその声に、やまひろがふわりと反応する。
鳥の姿の彼は、厨房の上の飾り棚からそっと羽ばたいて、
店内の中央までゆっくり浮かんできた。
黄色がかった小さな鳥。丸い体に3本だけ跳ねた頭の羽。
喋らないが、羽の動きと、浮かぶログで気持ちは伝わる。
[今日のログ:0]
[予約:0]
[音声反応:-]
// だれも、こなかった日。
やまひろは、小さく首を傾げた。
「……それでも、“ひとくち目”は、残っているのですよ」
くもいさんが、カウンターに小さな器を置いた。
中には、何もない。湯気もない、エフェクトもない。
けれど、その器を見ていると、不思議と“記憶の味”が蘇ってくる気がした。
その時──。
カラン。
カウンターに、ベルの音が鳴った。
誰も触れていないはずの、その金属の澄んだ音だけが、店内に響く。
やまひろがログを確認する。
通知:来店情報なし
映像なし
座標ノイズ反応(カウンター席3)
// 「……これは、だれ?」
カウンター席の3番に、わずかにへこみができていた。
まるで、誰かが腰かけたばかりの椅子の跡のように。
「……ようこそ、みりん亭へ」
くもいさんは、一瞬だけ視線を落とし、笑った。
その声に返事はない。でも、どこかが“ふるえた”ような感覚が、店内を通り過ぎた。
その夜の記録には、誰の名前も残っていなかった。
けれど、やまひろのログの隅にはこう書かれていた。
ファントムログNo.1
内容:反応あり/記録なし
備考:
“この店は、記録されなくなっても、まだ誰かの“ひとくち目”を受け取っている。”
それが誰なのかは、今もわからない。
でも、今日もくもいさんは、いつもと変わらず、器を温めている。
「また、いらしてくださいね」