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第261話 回収者
【異世界・王都外縁/保護施設・夜】
夜の保護施設は、昼間よりも静かだった。
石造りの建物を囲む木々が風に揺れ、枝の擦れる音だけが窓の外から聞こえている。
高瀬直人は北側の病室で眠っていた。
名前を思い出したことで、胸元にあった曖昧な反応は少しずつ形を持ち始めている。
《高瀬直人》
《現実世界》
《帰りたい》
三つの反応。
まだ完全ではない。
それでも、最初に会った時とは違っていた。
ただ同じ言葉を繰り返していた男ではない。
少しずつ、自分自身を取り戻し始めている。
サキは椅子に座り、スマートフォンを見ていた。
reは画面の中で静かに光っている。
先ほどまで、複数の失踪者候補へ白い道を伸ばしていた。
だが今は動かない。
「疲れたのかな」
サキが小さく言う。
ハレルが隣から画面を見る。
「reが?」
「分かんない。でも、さっきから何も出さない」
窓際にいたリオが言った。
「何もないなら、それでいい」
「最近、reが光る時って、大体ろくなことがないからな」
サキが少しむっとする。
「reのせいじゃないよ」
「分かってる」
リオは右手首の副鍵を外套の袖で隠した。
その近くでは、アデルが警備配置を確認している。
「今夜は、このままここで高瀬を保護する」
アデルが言った。
「夜明け前に、王国警備局の管理施設へ移す」
ヴェルニが壁にもたれながら尋ねる。
「ここより警備局の方が安全か?」
「少なくとも、この施設の位置はもう知られている」
「それはそうだな」
ヴェルニは窓の外を見る。
「昼間の測定反応も、完全には消えてない」
ハレルが尋ねる。
「まだ誰か見てるのか」
「見てるか、待ってるか」
ヴェルニは答えた。
「どっちでも同じだ」
アデルが言う。
「移動の時刻は、直前まで外へ出さない」
「ノノにも伝えてある」
イヤーカフからノノの声が入った。
『聞こえてるよ』
「盗み聞きか?」
ヴェルニが笑う。
『通信繋ぎっぱなしなんだから、聞こえるよ』
「なら俺の悪口も全部聞こえてるな」
『言われたくなかったら、ちゃんとして』
「厳しいな」
アデルは二人を無視する。
「ノノ。外部反応は」
『今のところ増えてない』
『でも、一つだけ気になる』
ノノの声から軽さが消えた。
ハレルたちも通信へ意識を向ける。
『昼間あった黒い測定点が、全部消えた』
リオが眉を寄せる。
「消えたならいいんじゃないか」
『逆』
ノノはすぐに答えた。
『もう測る必要がなくなった可能性がある』
室内の空気が変わった。
ヴェルニが窓から離れる。
「場所を把握したってことか」
『たぶん』
アデルは即座に立ち上がった。
「警備を倍にする」
その瞬間。
サキのスマートフォンで、reが強く震えた。
◆ ◆ ◆
白い線が伸びる。
高瀬の寝台ではない。
窓でもない。
扉でもない。
床。
reの線は床の中央へ伸び、そのまま大きな円を描いた。
だが円は完成しない。
途中で何度も線を切り、別の場所へ引き直す。
サキが立ち上がる。
「何これ」
ハレルも画面を見る。
「道?」
「違う」
リオが低く言った。
「避けてる」
reは安全な道を示しているのではない。
何かが現れる場所を避けるように、線を引いている。
アデルがすぐに命じる。
「高瀬を起こせ」
警備局員が寝台へ近づく。
「高瀬さん」
男の肩へ触れようとした、その時。
床の一角が黒く染まった。
ほんの小さな点。
墨を一滴落としたような黒。
それがゆっくり広がる。
ヴェルニが剣を抜く。
「来た」
アデルも左手を前へ出す。
「全員、黒い部分から離れろ!」
ハレルが高瀬の肩を支える。
「高瀬さん、起きてください!」
「……う……」
高瀬が薄く目を開ける。
「何が……」
「移動します」
「今すぐ」
床の黒は、円になった。
そこから冷たい風が吹き上がる。
外からではない。
地下からでもない。
別の場所から流れ込んでくる風。
ノノの声が通信に飛び込む。
『転移反応!』
『でも普通の入口じゃない!』
アデルが叫ぶ。
「セラ!」
『見ています』
セラの声も重なる。
『カシウス側の通路です』
『ここへ直接開いています』
ヴェルニが剣を構える。
「やっと来たか」
アデルが睨む。
「楽しそうにするな」
「してない」
「顔が笑ってる」
「癖だ」
黒い円が広がる。
reの白い線は、その円から高瀬を遠ざけるように伸びていた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cの画面には、保護施設の内部が映っていた。
高瀬直人。
雲賀ハレル。
一ノ瀬涼。
アデル。
ヴェルニ。
サキ。
それぞれの位置が、白い点で表示される。
ジャバは黒い裂け目の前に立っていた。
背後には三体の影獣。
人間より一回り大きい。
四肢は細長く、身体の表面を黒い煙が這っている。
「面倒な連中が揃ってるな」
ジャバが言う。
カシウスは画面を見たまま答える。
「高瀬だけでいい」
「鍵は?」
「取れるなら取れ」
カシウスの視線が、リオの右手首へ移る。
「主鍵より副鍵を優先しろ」
ジャバが笑う。
「高校生の腕から取ればいいだけだろ」
「そう簡単ではない」
オルガが言った。
「鍵は本人の観測と結びついている」
「力ずくで外せば、鍵そのものが壊れる可能性がある」
「なら腕ごと持ってくるか」
ジャバが冗談とも本気ともつかない声で言う。
白峰律が眉を寄せる。
「壊すな」
ジャバが白峰を見る。
「お前が言うのかよ」
「副鍵は帰還線を固定するためにも使える」
白峰は冷静に答えた。
「使えるものを壊す意味はない」
カシウスが会話を切る。
「高瀬を優先しろ」
「高瀬?」
ジャバが鼻を鳴らす。
「名前も思い出せてない普通の男だろ」
「だから価値がある」
カシウスは画面の高瀬を見る。
「異世界へ転移した」
「名前を失った」
「記憶を失った」
「そして、自分の力で名前と帰還意思を取り戻し始めている」
「帰還実験には都合がいい」
ジャバは肩を回した。
「生きてりゃいいんだな」
「意識を壊すな」
「了解」
Cが告げる。
『転移経路、固定』
『保護施設内部へ接続します』
黒い裂け目が開いた。
ジャバはその中へ踏み込んだ。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/保護施設・夜】
黒い円の中央から、まず一本の腕が出た。
人間の腕ではない。
黒い影で覆われた長い爪。
床を掴む。
続いて、影獣の頭部。
口の端から黒い煙を吐きながら、ゆっくり身体を引きずり出してくる。
警備局員が息を呑む。
「影獣!」
アデルが叫ぶ。
「下がるな!」
影獣が飛び出した。
ヴェルニが一歩前へ出る。
「〈風刃・第三級〉――切れ!」
空気の刃が横へ走る。
影獣の身体へ直撃。
黒い身体が壁へ叩きつけられる。
だが、倒れない。
壁に爪を立て、そのまま起き上がった。
「硬いな」
「遊ぶな!」
アデルが剣を抜く。
〈封縛・座標杭〉
四本の光杭が影獣の周囲へ突き刺さる。
黒い身体が、その場へ縫い止められた。
「今のうちに高瀬を!」
ハレルとリオが高瀬の両側を支える。
サキが先へ走る。
reの白い線は、病室の外。
北側廊下。
さらに階段へ向かっている。
「こっち!」
二体目の影獣が黒い円から出る。
警備局員が盾で受ける。
「ぐっ!」
衝撃で兵士が後ろへ飛ばされる。
リオが振り返る。
「〈捕縛・第三級〉――鎖!」
光の鎖が影獣の後脚へ絡みつく。
「行け!」
ハレルは高瀬を支えながら廊下へ出た。
高瀬の呼吸が乱れている。
「何が……起きて……」
「あなたを狙ってます」
ハレルは隠さなかった。
「俺を?」
「はい」
高瀬の足が止まりかける。
「どうして……」
「今は逃げましょう」
サキが前から叫ぶ。
「お兄ちゃん、急いで!」
reの線が階段へ伸びる。
その時。
病室の奥から、低い声がした。
「見つけた」
ハレルたちが振り返る。
黒い円の中央。
人間の足が現れている。
大きな体。
傷だらけの腕。
口元に浮かぶ、荒い笑み。
ジャバが、ゆっくりこちらの世界へ足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
ヴェルニが前へ出た。
その姿を見た瞬間、ジャバの口元がわずかに吊り上がる。
「……またお前か、炎野郎」
ヴェルニもすぐに相手が誰か分かった。
「こっちの台詞だ」
「前はずいぶん殴ってくれたな、ジャバ」
「まだ覚えてたか」
「腹にあんなの食らわせといて、忘れると思うかよ」
ヴェルニの指先に炎が灯る。
ジャバは肩を鳴らした。
「なら、今度は忘れられねえくらい叩き込んでやる」
「やってみろ」
ヴェルニは笑った。
「前みたいに簡単に吹っ飛ぶと思うなよ」
「前も最後まで立ってただけだろうが」
「立ってりゃ十分だ」
二人の間で空気が張り詰める。
以前――転移した学園での戦い。
ジャバの拳を何度も受け、それでもヴェルニは立ち続けた。
最後にはハレル、リオ、アデルたちと力を重ね、ジャバを押し返している。
互いに、相手の力がどれほど厄介かは分かっていた。
アデルが鋭く言う。
「ヴェルニ。挑発に乗るな」
「分かってる」
答えながらも、ヴェルニの炎は消えない。
だがジャバも、ヴェルニとの再戦だけを目的に来たわけではなかった。
その視線が横へずれる。
アデルでもない。
ヴェルニでもない。
廊下。
高瀬直人。
そして――
その隣にいるリオの右腕。
「……そっちか」
リオの表情が変わる。
ジャバは目を細めた。
「副鍵」
右手首の腕輪。
外套の下に隠している。
それでもジャバは、位置を正確に見ていた。
リオが右腕を身体の後ろへ引く。
「誰が教えた」
「お前らが教えたんだよ」
ジャバは笑う。
「名前を戻して」
「身体を確認して」
「帰りたいって言わせて」
「こっちは待ってただけだ」
ハレルの表情が固まった。
カシウスの狙い。
自分たちが高瀬を本人として確認するまで待っていた。
そして今。
帰還できる条件が揃い始めたから、奪いに来た。
アデルが低く言う。
「高瀬を渡すと思うか」
「思ってねえよ」
ジャバの笑みが消える。
「だから奪う」
床の黒い円がさらに広がった。
三体目の影獣が這い出してくる。
廊下の外でも警報が鳴り始める。
建物全体へ異常が伝わった。
ヴェルニが言う。
「アデル」
「ああ」
二人とも、同時に構えた。
ジャバの目は高瀬を見ている。
だが。
その視線が一瞬だけ。
リオの右手首へ落ちる。
「男一人と」
ジャバが呟く。
「鍵一つ」
「それでいい」
リオが前へ出ようとする。
ハレルが止めた。
「リオ」
「分かってる」
リオは副鍵を隠したまま、ジャバを見る。
「狙いが俺なら、なおさら高瀬から離す」
「駄目だ」
ハレルが即座に言った。
「鍵を取られたら、帰れなくなる」
「なら取らせなきゃいい」
「そういう問題じゃ――」
「二人とも!」
アデルの声が飛ぶ。
「言い争ってる場合じゃない!」
ジャバが笑った。
「いいねえ」
「そういうの」
「誰を守るか決められない顔だ」
アデルの剣先が向く。
「黙れ」
白い光が床を走る。
同時に。
サキのスマートフォンで、reが突然強く光った。
今まで階段へ伸びていた白い線が消える。
新しい線。
一本だけ。
高瀬から離れ。
ジャバからも離れ。
建物のさらに奥へ向かって伸びた。
ハレルが気づく。
「別の道?」
だが、その先にあるのは。
施設の記録上、何もない場所だった。
壁。
行き止まり。
サキが画面を見る。
「re、そこに何があるの?」
答えはない。
白い線だけが、壁の向こうへ伸びている。
アデルも気づいた。
「ハレル!」
「reを信じろ!」
ジャバが踏み込む。
床が砕ける。
ヴェルニの風と、アデルの結界が同時に展開した。
高瀬を奪う者。
それを守る者。
そして、まだ誰にも見えていない逃げ道。
最初の失踪者をめぐる戦いが。
ついに始まった。
#溺愛
桜咲かな
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#溺愛
桜咲かな
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コメント
1件
reが壁の向こうに道を伸ばす場面、鳥肌立ちました…。ジャバとヴェルニの再戦も熱いし、リオが鍵を守ろうとする姿がもう…!高瀬さんが名前を思い出しかけてるのに狙われるの、本当に切ない。逃げ道の先が気になりすぎて夜しか眠れません🥀