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朝の光は、まだ少し冷たい。
セレスティア魔法学園・星光寮の窓から差し込む陽射しが、レクトの机の上で広げた新聞を淡く染めていた。見出しは大きく、でも優しい文字で綴られている。
『三国共同復興協定調印 永遠の果樹園は永久封印へ』
レクトは小さく息を吐いた。ほっとした、というより、ようやく肩の力が抜けたような、そんな感じだった。
「……よかった」
呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
あの戦いの後、グランドランドもシャドウランドもストームランドも、一致団結する考え方にまとまった。
「もうあんな悲劇二度と起こさせまい」
と、
焼け野原になった街、泣きじゃくる子どもたち、行方不明になった人々、ダルトリアという悪意の暴走による世界が本当に終わる寸前を目の当たりにして、
世界はいい方向に進んでいった。
記事には、ストームランドの魔法使いたちがグランドランドの農地に電気を送り、シャドウランドの影術師たちが夜通し崩れた橋を修復している写真が載っている。
みんな疲れた顔をしているけれど、笑っている。
レクトは新聞を丁寧に畳んで、机の端に置いた。
これで、本当に一段落だ。
そんなとき、ノックの音がした。
「レクトー、まだ寝てる?」
明るい、でも少しだけ眠そうな声。
ドアがゆっくり開いて、茶髪の髪が朝陽にきらめいた。
ヴェル・ルナリアが顔を覗かせた。
「おはよう。……あ、起きてるね!」
彼女は少し照れたように笑って、
部屋の中に入ってきた。
白いブラウスがふわりと揺れる。
首筋が少し赤い。朝の冷たい空気のせいだろうか。
「うん、おはよう。
新聞見てたら、なんか安心しちゃって」
レクトが新聞を指差すと、ヴェルは「あたしも見た!」と近づいてきた。
二人の肩が、少しだけ触れる距離。
ヴェルは机の上の新聞に視線を落としたまま、ふっと息を吐いた。
「本当に……終わったんだね」
その声は、どこか震えていた。
戦いの最中、ヴェルは死にかけていた。
操られたレクトによって。
だからこそ、今のこの静けさが、信じられないほど尊く感じる。
「……ひと段落、ついたね」
ヴェルが呟いた。
その瞬間だった。
レクトが新聞を片付けるために少し体を動かした拍子に、寝間着の襟元がゆるんだ。
白い首筋から鎖骨にかけて、朝の光を受けてほのかに艶めく肌が、ほんの一瞬だけ覗いた。
ヴェルの視線が、ぴたりとそこに止まった。
(……あ)
心臓が、どきん、と跳ねた。
変な音がした気がして、
慌てて目を逸らしたけれど、遅かった。
視界の端に焼きついて離れない。
ちょっとだけ赤みがかった肌。
(なんで……こんなに見ちゃったんだろ)
頬が熱い。耳まで熱い。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられるような、
でもふわっと浮くような、わけのわからない感覚。
「ヴェル?」
レクトが不思議そうに首を傾げた。
「えっ!? な、なんでもない!」
ヴェルは慌てて一歩下がった。声が裏返る。
「ほ、ほんとになんでもないから! 私、ちょっと用事思い出した!」
「え、でもまだ朝ごはん……」
「だ、大丈夫! 後で食堂でね!」
ヴェルは顔を真っ赤にしたまま、ばたんとドアを閉めて飛び出していった。
廊下に出た瞬間、壁に背中をつけてしゃがみこんだ。
「うわぁぁ……何してんだろ私……!」
両手で顔を覆う。
指の隙間から漏れる吐息が、熱すぎて恥ずかしい。
好き、とか、そういうんじゃない。
きっと違う。
だって、こんな気持ち、初めてなんだもん。
……でも、胸のドキドキが、止まらない。
そのすぐ近く、階段の陰から、くすくす笑う声がした。
「やーめちゃくちゃわかりやすいじゃん、ヴェルちゃん」
「ひゃっ!?」
顔を上げると、そこにはニヤニヤ顔のカイザが立っていた。電気の粒がぱちぱちと彼の周りを踊っている。
「カ、カイザ!? いつからいたの!?」
「最初から〜。いやー、顔真っ赤で面白かったなー」
「ち、違う! あれはただの……その……!」
「好きなら告っちゃえばいいのにさー」
「そんなんじゃないってば!」
ヴェルは立ち上がって、必死に否定した。
でも声が震えてる。自分でもわかってしまう。
カイザは肩をすくめて、優しく笑った。
「まぁ、焦らなくてもいいよ。レクトは鈍感だからさ」
「……うるさい」
ヴェルはぷいっと横を向いたけど、唇の端が少しだけ緩んでいた。
そして数日後
サンダリオス家の広間は、久しぶりに温かい灯りが灯っていた。
「レクト、よく来たね」
パイオニアは、
もう前のような鋭い眼光はなかった。
戦いで疲れていたが、前よりも優しさで溢れていて笑顔が華やかだ。
(父さん、元気そうでよかった)
テーブルには、エリザの手料理が並んでいる。
トマトの香るスープ、焼きたてのパン、黄金色に輝くオムレツ。
長い間味わうことのなかった、家庭の匂いだった。
「さぁ、座って。冷めちゃうよ」
母のエリザが、穏やかな目をして言った。
レクトは椅子に腰を下ろす。
父と母に囲まれて、スプーンを手に取った瞬間、胸がじんわり熱くなった。
(こんな日が来るなんて……)
でも、その幸せは長くは続かなかった。
「何のつもり?」
刃のような声が、広間を切り裂いた。
ルナ・サンダリオスが、影をまとって立っていた。
黒髪をきりりと結い上げ、瞳は怒りの炎で燃えている。
「ルナ……」
「今すぐ出て行ってレクト・サンダリオス」
姉の声は、震えていた。
スプーンが、レクトの手の中で小さく鳴った。
温かいはずの部屋が、一瞬で凍りついた。
(まだ、フルーツ魔法を認めてくれないか)
レクトは唇を噛んだ。
父が立ち上がろうとするのを、母がそっと制した。
ルナの瞳に浮かぶのは、言うまでもない怒り。
「お前が変な魔法出すから私はずっと…っ!」
言葉が、途中で詰まる。
影が、ルナの足元でゆらゆらと揺れた。
レクトはゆっくりと立ち上がった。
「……ごめん」
それだけ言って、静かに頭を下げた。
「今日は帰るね。また来るよ」
背を向ける。
振り返らない。
母が何か言おうとしたけれど、レクトは小さく首を振った。
玄関を出ると、外はもう夕暮れに近かった。
オレンジ色の空が、どこまでも優しく広がっている。
レクトは深呼吸して、空を見上げた。
(そう、まだ、終わってないんだ)
家族の傷は、そう簡単には癒えない。
でも、だからこそ。
「……頑張らないと」
小さく呟いて、レクトは学園への道を歩き始めた。
胸の奥に、ほんのりと温かいものが灯る。
ヴェルの笑顔を思い出す。
カイザやビータの声も、遠くから聞こえてくる気がした。
(みんながいる)
だから、まだ歩ける。
夕焼けに染まる道を、少年はゆっくりと、でも確かに進んでいった。