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7月上旬、朝のHR
出席確認を終えると、担任がゴホンと喉を鳴らしてから口を開いた。
「みんな分かってると思うが、あと1週間で学力試験があるからな~、期末に向けてしっかりと準備しておくように」
担任の言葉に、教室全体がぴしっと引き締まったように感じられた。
僕はちらりと右側の席を見る。
案の定、學くんは億劫そうな顔をしている。
数学が苦手な彼にとって、学力試験は憂鬱の種だ。
そんな彼を見ていたのがバレたのだろう。
僕の視線に気づいた學くんは、いつものように僕の両手を包むように掴んで
「ねぇ、ひとみ!今日暇なら勉強会しよ?!」
と必死に懇願するような目で訴えかけてくる。
「へへ、學くんってテスト期間に入るといつもそうだよね。全然いいよ!」
僕は微笑みながら頷いた。
僕自身、夜盲症という病気を持っている。
中学生の頃
クラスメイトの男子1人に夜道で突き飛ばされて怪我を負わされて以来
母さんが車で迎えに来てくれるようになった。
でも、途中から學くんが一緒に帰ってくれるようになったりして
僕の不安は少しずつ和らいでいった。
学校行事などで暗いところに行く時は、必ず僕の手を握ってくれる。
「ひとみ、ここ段差あるから気をつけて」
と気を配ってくれたりもする。
運動もできてコミュニケーション能力も高く、なんでも出来そうに見える學くん。
そんな彼にも、算数障害という苦手なところがある。
だからテスト期間に入ると、いつものお返しとして僕が勉強を教えるのが日常茶飯事になっている。
それに、學くんと一緒に過ごす時間が増えるのは僕にとって何よりも嬉しいことだ。
◆◇◆◇
夕方になって空が茜色に染まる頃
僕たちは図書室で隣同士に座って勉強を始めた。
参考書を開き、問題に目を通していると、隣で學くんが
「マジで意味分かんな……はあ、絶対俺また赤点だよ~…」
なんて弱音を吐きながら頭を抱えていた。
ちらりと覗き込むと、それは平方根の問題だった。
確かに、ここはつまずきやすいところだ。
「どれどれ~?うーん……ほらここ、根号を使ってみて。それで掛け算じゃなくて割り算に置き換えるの。そしたら……よし、できた!」
僕が丁寧に説明すると、學くんは不思議そうに顔を上げて
「マジじゃん……すげぇ」
と驚いたような表情でノートを見つめた。
「どう、分かった…?」
そう尋ねると
「いや、全然分からんかった…もっと分かりやすく教えてよ」
と、あっけらかんと言われてしまった。
僕はちょっと困ったように眉を寄せたけれど、すぐに笑顔を作って続けた。
「うーん、じゃあこの長方形の面積があるでしょ?そしたら面積の計算式で割れば……」
僕が別の例えで説明すると
「マジだ……ひとみ天才じゃん!!」
と、學くんは感動したように目を輝かせた。
その姿があまりにも無邪気で、僕はつい苦笑してしまう。
「もうっ、大げさなんだから……」
「いやいや、ガチで凄いって!この調子で全部解いて!」
「そ、それはさすがに自分でやってほしい…かも」
僕が困惑気味に言うと、彼は「ちぇっ」と拗ねたような顔をした。
そんな彼を見て、僕は思わず笑ってしまう。
やっぱり彼といるときは、心が穏やかになる気がした。
そうしているうちに、いつの間にか辺りは薄暗くなりかけていて、慌てて帰り支度をした。
「やば、もう暗いじゃん。急いで帰ろっか」
◆◇◆◇
駅に向かって學くんと手を繋いで歩く。
日が沈みきり、街灯がぼんやりと足元を照らし始めた。
その光も僕の目にはどこか頼りなく、ぼやけた輪郭しか捉えられない。
昼間にはなんでもないアスファルトのひび割れや
道の小さな段差でさえ、この時間になると急に大きな障害物へと変わる。
でも、學くんが隣にいるから大丈夫だと思えた。
彼の大きな手が僕の手をしっかりと包んでくれているだけで、僕は不思議と安心していられた。
その温かさが、僕の不安な心を静めてくれる。
「ひとみ、大丈夫?」と、僕の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれているのがわかる。
彼の存在そのものが、僕の視界を広げてくれているみたいだと感じるのにももう慣れた。
駅まであと少しというところで、僕の視界はさらに悪くなった。
薄暗い住宅街に入り、街灯の数が減ったのだ。
足元が見えにくくなり、わずかに緊張が走る。
そのとき、不意に足裏に違和感を感じた。
きっと小さな石ころか何かだったのだろう。
そのせいで一瞬バランスを崩してしまった。
夜盲症の僕にとって、転びかける感覚はいつものことだ。
でも、いつもと違った。
僕の体はそのまま傾き、支えを求めて無意識に學くんの肩へと倒れ込んだ。
それでも決して2人揃って転んだわけではなかった。
僕の体を、彼の温かい肩が優しく受け止め、利き手でしっかりと支えてくれたのだ。
その瞬間、彼のぬくもりが直接伝わってきて、鼓動が一層強く打つのを感じた。
「……っと、大丈夫?ひとみ」
學くんの低い声が耳元で響いた。
「う、うん!ありがと、まなぶくん…」
僕は慌てて体勢を立て直し、謝る。
恥ずかしさと申し訳なさが入り混じった感情で、顔が熱くなるのを感じた。
暗闇だから、顔が赤いことに気づかれていないことを祈った。
そのとき、不意に學くんの手が僕の額に触れる感触がした。
ひんやりとした彼の指先が、熱を持つ僕の肌に心地よくて、僕は思わず目を閉じる。
「熱、は無いか…顔赤いけど、大丈夫?」
優しく、けれど鋭い声が問いかけてくる。
「えっ?!だ、大丈夫!!っていうか…暗いのによくわかったね…」
僕が驚いて尋ねると、彼は少し呆れたような声で言った。
「そりゃ当然でしょ?親と同等に見てる顔だし、ひとみと違って目はいいから暗くてもよく分かるよ」
彼の言葉には、迷いがない。
僕の心臓が、またトクンと跳ねた。
親と同じくらい、僕のことを大切に思ってくれている。
その事実が、僕の胸をじんわりと温かくする。
「……そっか。へへ、ありがとう」
小さくつぶやいた僕の声は、夜の静寂に溶けて消えていく。
「じゃ、行こっか」
そう言って學くんは僕の左手を掴むと、再び歩き出した。
その手は、やっぱり大きくてあたたかくて、僕の不安や混乱を簡単に飲み込んでくれた。