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九月十日、正午。
和館の大広間には、まだ壁土の匂いが残っていた。落ちた欄間は片づけられ、割れた障子には、白い紙が継ぎ当てしてある。床の間の柱の時計は、硝子の割れたまま、十一時五十八分を指して止まっていた。
先代様の肖像画は、元の壁に掛け直されていた。
上座に、高階審議官。その右手に、分家の御当主が二人と、村瀬弁護士。
左手には、日下部先生と、大奥様と、百合絵様。少し離れて、麗子様。その後ろに、手帳を構えた『東都日報』の若い記者が一人。麗子様が呼んだ人だった。
広間の隅の暗がりに、鬼塚警部補が、帽子をかぶったまま立っていた。
私は、母の形見の、紺地に白い桔梗の小紋を着ていた。嫁いできた日に着ていた、一枚きりの晴れ着だった。帯は、紺の博多。
襖の外で、衣擦れの音がした。
「失礼いたします」
真柴さんだった。
灰色の背広は、新しく仕立てたように、皺ひとつなかった。七三の髪も、銀縁の眼鏡も、いつも通りだった。この十日、どこにいたのか、誰も知らない。
真柴さんは、下座に膝をつくと、まず、私に向かって、深々と頭を下げた。
「このたびは、御愁傷様でございます、奥様」
目尻に、深い皺が寄った。
「御前は、立派なお方でございました」
紫の風呂敷が、ほどかれた。
厚手の、少し焼けた色の和紙。子持ち罫。旧い紋。明治三十八年三月、久遠寺宗隆。
「御当主が罹災された以上、家督は、遺言に従うのが筋」
赤坂の御分家が、口髭を撫でた。
「未亡人には、気の毒だがな」
私は、手をついた。
「未亡人として、お願い申し上げます。その書状を、検分させてください」
高階審議官が、うなずいた。
真柴さんが、穏やかに口を挟んだ。
「恐れ入りますが、審議官様。奥様がお持ちの紙は、奥様の御実家の紙でございます。活版所の娘なら、どのような紙でも、拵えられましょう」
私は、帯に手をかけた。
母の裁ち鋏で、紺の博多の芯の縫い目を、一目ずつ切った。
半紙の包みが出てきた。二重の半紙をほどくと、一枚の、古い頁が現れた。
刷り見本と、父の細い字。
大正七年五月 久遠寺家御用 罫紙二千枚。明治様式 旧紋。刷了表示ナシ 先方ノ御指図ニヨル。
私は、頁を書状の横に並べ、ルーペを、高階審議官に差し出した。
「どちらも、左下の角を御覧ください」
審議官が、長いあいだ覗いていた。
「……同じ欠けだ」
「大正七年の五月、神田の志摩活版所で、この罫を土間に落として欠けさせたのは、十五歳の私です」
広間が、静まり返った。
「明治三十八年の御遺言が、大正七年に私の家で刷った紙に、書かれております」
父の店の罫紙が、偽物の遺言に使われた。それを、私は、自分の口で言った。
もう、隠すことは何もなかった。
「奥様の手もとの紙だけでは、ございませんぞ」
鬼塚警部補が、暗がりから進み出て、紙の束を畳に置いた。
「日本橋の貸し倉庫にあった、残りの千九百枚。借り主は偽名だが、大家が、借りに来た男の人相を覚えとります。七三の髪に、銀縁の眼鏡」
帯紙には、父の字で、久遠寺家御用、とあった。
村瀬弁護士の、鼈甲縁の眼鏡が、鼻の上でずり落ちた。
警部補は、そちらを見もせずに続けた。
「村瀬さん。あんたが警視庁へ届けた宇佐美の遺書の封筒。将臣は、家令から自分の名で出せと頼まれた、と白状しとります。八月二十一日に銀座のカフェーで、あんたが家令から宛名のない封筒を受け取るところは、女給が見とる」
「わ、私は、依頼人の書類を、預かっただけで」
「それから、八月二十三日の朝十一時。この屋敷の電話から、警視庁の刑事部へ、侯爵の居所を知らせた者がおる。芝の分局の交換手が、声を覚えとった。恐れ入りますが、と、交換手にまで言う男の声だそうですな」
村瀬弁護士は、口を開けたまま、何も言わなかった。
私は、もう一枚、帯の間から罫紙を出した。白河家の文箱の底で、鍵を包んでいた一枚。
「千鶴さんが、大正十年の夏に、この家の中から持ち出した一枚です。日記に、どこで見つけたかも、書いてありました」
臙脂の当用日記を開く。塗りつぶした墨の下の、鉛筆の溝。
家令室。
真柴さんは、表情を変えなかった。
「紙が、家令室にあったとして。それを、私が注文したと、どなたが」
「注文主は、明治の古い書付を一枚、見本に持ってきたそうです」
私は、広間の入り口を見た。
襖が開き、篠原さんに手を引かれて、小柄な老婆が入ってきた。白髪を結い上げ、洗い晒しの浴衣の衿を、ぴしりと合わせて。
真柴さんの顔から、初めて、笑みが消えた。
「……母さん」
ふささんは、何も言わなかった。胸に、古い文庫を抱えていた。その中に、明治九年の春の、細い輪に四枚の葉の書付が入っていることを、私は知っていた。大正七年の春に、ひと月だけ、息子が借りていった書付が。
「注文主は、話のあいだじゅう、懐中時計の鎖を、白い指に巻いたりほどいたりしていたそうです」
私が言うと、真柴さんの右手が、背広の胸の鎖から、ゆっくりと離れた。
私は、続けた。
大正十年八月十四日、午後九時。華族会館の来訪帳に、九時二十分の家扶の朱印の上から書き足された、青黒い一行。鎌倉郵便局、受付二十時五十分の、トウマの電報。
私は、帯の間から、黒軸に金の飾り輪の万年筆を抜いて、畳の上に置いた。
「来訪帳の青黒は、このインクと同じ色です。嫁いで三日目に、真柴さんが、私に下さった万年筆の」
大正十一年十一月。蔵の鍵を開け、牡丹の蓋付きの茶碗を選んで出したのが誰だったか。
「あたくし、小さい頃、あのお茶碗に触ろうとして、真柴に叱られたわ」
百合絵様が、袴の膝を握りしめて言った。
「あんなに怖い顔の真柴は、あとにも先にも、あのときだけだった」
そして、宇佐美先生の遺書。今年の一月十日まで、この家に存在しなかった侯の字で打たれた、死者の遺書。
篠原さんと下男が、担架を運び入れた。
タキさんが、横たわっていた。震える手に、平仮名の三行の半紙を握って。
かれい ふうをきった ぶどうしゅ。
タキさんの濁った目が、下座の灰色の背広を、まっすぐに見ていた。
「最後に、これを」
鬼塚警部補が、黒漆に金蒔絵の文箱を畳に置いた。
「大奥様のお膝の下から、お預かりしました。錠は、壊させてもらいましたぞ」
蓋が、開いた。
中から出てきたのは、紙の束だった。
半紙に、何十、何百と書き連ねた、同じ名。宗隆。宗隆。宗隆。隆の旁の最後の横画を、右へ長く引いて、跳ね上げる。上の紙ほど拙く、下へいくほど、本物に近づいていた。
その下に、礼状用の罫紙が三枚。去年の四月、私が書き損じて、家令室の屑籠に捨てたものだった。栞の字の、木の縦画が、下へ滑って伸びている。
そして、いちばん底に、封筒が一つ。
表に、跳ねるような字で、旦那様へ、と書いてあった。
行の終わりが、右へ逃げていた。
千鶴さんの字だった。
鎌倉の別荘の文机の引き出しから、誰かが持ち去った、封筒ほどの大きさの何か。
高階審議官が、ゆっくりと右手を向いた。
「麻布、赤坂の御両家。八月二十一日に、そのカフェーとやらで、家令から何を受け取られた」
麻布の御分家が、白髪の頭を垂れた。赤坂の御分家は、顔を赤黒くして、口髭の下で何か言いかけ、そのまま黙った。『東都日報』の記者の鉛筆が、紙の上を走る音だけがした。
広間じゅうの目が、下座に集まった。
真柴さんは、しばらく、黙っていた。
それから、低く、笑った。
「お見事でございます、奥様」
いつもの、丁寧な声だった。
「けれど、証拠は、紙切ればかりですな。紙は、口をききません。私が書くのを見た者も、私が茶碗に何かを塗るのを見た者も、この家には、一人もおりません」
真柴さんは、上座の審議官を見上げた。
「それに、この紙切れを誰に突きつけようと、御当主は、もうおられない。家督は、遺言のほかに、継ぐ者のない家でございます」
そのとき、広間の奥の襖が、静かに開いた。
「紙切れでは、足りないか」
冬馬様が、立っていた。
コメント
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⋆⸜ 第78話、読み終えたよ〜!!⸝⋆ もうね、冒頭から息つく暇なかった😭💕 罫紙の「欠け」を自分の手で証明するところ、めっちゃエモかった…!「十五歳の私です」って告白、奥様の覚悟がひしひしと伝わってきて震えた。 そして真柴さんの「紙切ればかり」からの冬馬様登場、鳥肌立ったよ!!🔥🔥 伏線回収エグすぎる、天才かよ…もう続きが気絶しそうなくらい気になる!!
local99
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瑠璃マリコ
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