筏を使って1年ほど海で旅をした。魚を釣り、鳥を喰らい、なんとか今日まで僕は生きながらえてきた。しかし、このような荒波はここ1年の旅の中で最も高いと言っていいと思う。もう、ダメかもしれない。
海はもはや黒く染まり、僕の唯一の筏という足場すらも飲み込まんとするその高い波。雨と風と雷が混在していて、視界は八方が水で右も左も分からない。波と格闘する間に、いつの間にか疲れて意識を失ってしまった。僕は死んでしまうのだろうか…
目が覚めると、硬い木のベッドに僕は横たわっていた。一命を取り留めたみたいだ。
「い、生きてる。けど、ここはどこ。」
まるで過去にタイムスリップしたかと思うほどに文明が後退している。バナナの葉と思しき屋根など、まるで先住民族の家屋みたいだ。
椅子に座り、うたた寝していた男が僕の声で起きた。
「んや、起きたか。」
「あの…ここは。」
「お前さん、海から流されてきたんだぜ。あの絶世海を抜けてきたんだよな。マジで命拾いしたなあ。俺はヤポスだ。」
「絶世海…。」
「ああ、この島と他の世界との関係を絶たせるほどに激しい天然の障壁のことさ。」
この人は今まで見てきた黒い人とは違う。最も違うのは話が通じること、僕を襲ってこないこと。僕が旅をしてきて、たどり着いた陸地には全てこの黒い人が待ち構えていた。その度に逃げて、逃げて、逃げ続けてきた。僕はなんだか、やっと自分自身が報われた気がした。
「ヤポスさん、よろしく。命を救ってくれてありがとう。」
「気にすんな。今は色々あって混乱してるだろうから、お前さんのことは後で教えてくれていいぜ。でもって、お前さんはここに来たからには1つやらなくちゃならんことがあるんだ。大老者のお二人に挨拶に行こう。」
「大老者…すっごい老いた偉い人ですか。」
「老いちゃいないんだなーこれが。まあ、ここの島のトップみたいなもんさ。みんなから慕われてて、何か困ったことがあったらみんなが彼らにアドバイスを乞うのさ。」
「ふーん…」
色々思うところはあるけれど、僕なんかが直接会いに行けるほどこの島の長は人と話すことが嫌いとか億劫ではないんだ。つまり、ヤポスが言いたいのはこの島で生きるなら長に顔ぐらい覚えてもらえってところかな。
「起きたばっかで辛いだろうけれど、付き合ってもらうぜ。今すぐに行こう。」
大老者様はどうやら島の北にある崖にいらっしゃるそうで、僕はヤポスに案内された。道中は自然ばかりの獣道で、見たことの無い虫や植物を目にすることも出来た。本当に違う世界に来たみたいだ。カタカタと鳴く虫や、普通なら日陰にいるような葉の形が高い高いところにあったりする。
「もうすぐで大老者様のところに着くぜ。気さくな方だ。だがあまり彼女のことを詮索をしない方がいいな。」
「彼女。女性なのか。」
「そういう詮索が危ないぜ。ま、まだガキんちょだし許していただけると思うがな。」
段差も険しい獣道を抜けると、まるで境界線を侵入しないよう植物たちが気をつけているかのようにはたと無くなった。ここいらは広々としていて目の前の太陽に目を焼かれる。明るさに目が慣れてきたとき、眼前には異様な光景が広がってきた。
老者って言うにはあまりに若い女性が台座の前に跪いていた。僕のお母さんよりもずっと若いだろう。そして黒い髪の毛が有り得ないほどに長い。結ってあろうとも地面に着いてるみたいだ。その長さは、彼女が見た目通りの年齢ではないことを明白にする。だからこそ異様な光景だった。
僕は大老者様にご挨拶をしようと前に出るが、ヤポスに手で遮られてしまった。
「しーっ、静かに。今はお祈り中だ。」
お祈り。一体何にだろう。ここの特有の宗教だろうか。
1分2分待つと、台座の女性はこちらに振り返って寄ってきた。その顔はやはりシワひとつ無くて綺麗だった。
「待たせちゃって悪いねえ。」
「お師様、件の放浪者を連れてきました。」
「あら、目が覚めたんだね。」
「えーっと初めまして。今までは1年くらい旅をしてました。歳は12です。」
「丁寧な子だねえ。ところでヤポス。」
大老者様の声音が変わってる。どう考えても僕のお母さんが僕を叱るときと同じトーンだ。危ないことをしたときは、いつもお母さんが1番に怒ってたかな。
「はい。」
「随分と痩せ細ってるみたいだけど、ちゃんと食事は与えたのかい。」
「い、いえ、今日目が覚めたらしくて、すぐに連れてきました。」
「何やってるんだよこのバカモノが。」
重い髪の毛を提げているとは思えない俊敏さでヤポスを締めている。どういう技なのかも知らないけれど、老人とは思えない速さだった。
「ぎゃああ、すみませんお師様あああ。すぐに連れてきた方が良いと思いましてええええ。ギブ、ギブ。」
締めはどんどんきつくなってるようだ。ヤポスは何か、この島の道理に反することをしてしまったらしい。大老者様はかなりお怒りだった。しばらくして、技を解除してしまったらしい。綺麗な技だったのに、もう見納めだ。
「こんなところに着く生存者なんて何十年ぶりか。ちゃんと丁重にしなきゃ駄目だよ。」
「わ、悪かったお師様。次からはちゃんとする。」
「あんたが生きてるうちに次があるかどうかなんて分からないけどねえ。」
このセリフには触れちゃいけなさそうだ。
「あの、大老者様。お伺いしてもいいですか。ここは一体どこなんでしょう。」
「ここは生存者たちの島だよ。こわーいバケモノを見なかったかい。」
「あ、はい。黒い人たちのことですか。」
「その、黒い人たちから逃げた人が作った集落がここなのさ。みんな助け合って、世代を紡いで生きている。絶世海に阻まれてて、内外からは出入りができないよ。時々こうしてあんたみたいに漂着してくる人もいるけれど。」
「へえ…。僕にとっては久しぶりの安全な陸地でオアシスみたいな場所です。だからこそ、まだ色々聞きたいことがあります。」
「どうぞ、なんでもお聞き。」
「台座にある死体はなんですか。」
彼女はしばらく口を開かなかった。まずい質問をしちゃったかもしれない。
「死んでいるように見えるけど、彼は生きてるのよ。」
台座の上にある金髪の男も、大老者様と同じように若い肌だ。
「彼がこの島に私たちを導いてくれたの。彼の時間は私と同じく無限。50年の時を経て、今もなおこのままよ。」
ご、50年。幼い僕にはまだ想像出来ない長さに固唾を飲む。い、いやいや。そんなことを言われてもすぐには信じられない。
でも、全てのことが本当だとしたら、彼女の見た目からはかけ離れた長すぎる髪の毛も、台座の男も、黒い人も、辻褄が合う。浮世離れした常識に目を白黒させるばっかりだった。もしかしたら僕は御伽噺の世界にでも迷い込んじゃったのかもしれない。
「ふふ。ちょっと想像が出来なかったかな。でも仕方ないよ。」
いたずらっぽく笑う大老者様の顔は、意地悪好きなお転婆少女のようで、孫に語り聞かせるときの微笑みのようにも見えた。なによりもその顔は綺麗だった。
「さて、あんたはこの先どうしたい。この島を抜けるって言うなら、私が抜け道を案内してあげるよ。この島に残るっていうなら、家を用意してあげよう。どっちにしろ生きるにはある程度の困難が伴うとも。」
「ぼ、僕は…。」
どちらにしようか揺れてると、大老者様が続けて口を開いた。
「あんた、さっきこの島のことをオアシスのようだと言ったよね。
オアシスとは心の休息所だ。旅人にとっての休息所でもある。本当は永住とは別に何か目的があるんじゃないのかい。」
「大老者様はなんでもお見通しですね。隠していたつもりも無いんですが、僕の両親の墓を作りたいんです。もし仮に生きていたら、必ず会いたい。」
「なら、尚更ここに残るべきだと思うよ。」
「え、それは何故です。」
「私が殺しを教えてあげられるからだよ。これであんたは黒い人を無力化することだってできるよ。」
この島を守る大老者様とは思えない発言に意図を掴めなかったけど、ヤポスを締めたときの身のこなしを思い出せばなるほど。
「意外かねえ。でも、私は自分可愛さにたくさんの人間を殺してこうしてここに立っているんだよ。あまりあんたぐらいの子には話さないの。だけど、あんたは死線を幾度かくぐり抜けてそうな、他の子とはちょっと違う風体だったんだよ。」
「分かるんですか。」
「そりゃ80年も生きてりゃね。」
すごい。この方は単純に長い時を生きてるわけじゃない。きっと何度も苦難を乗り越えてきたんだろう。
大老者様の過去を想像していると、僕の半分もいかないであろう男女の子供たちが元気に大老者のもとへ駆け寄ってきた。
「お師様お師様、今日も御伽噺を聞きたくて来ちゃった。」
「こらー。大老者様が困っちゃうでしょ。離れようよ。」
ワイワイと子供たちが大老者様の服を引っ張ったり、それを引き剥がそうとしたり、騒がしい。
「よいよい。また聞かせてやろう。ほれ、よさんか。」
大老者様は僕に横目を向けて、子供たちに引っ張られる。
「ちょっとは考えも変わるかもねえ。あんたも聞くかい。この島が誕生した御伽噺を。」
もの悲しげな雰囲気をまとった大老者様は先程とは感じが違う。慈愛に満ちたような、子供のこの先を憂うような、うまく言い表せないけど、そんな感じだった。僕はこくりと頷いて、大老者様の後を追った。
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