約束していた土曜の十六時。
また、あの個別指導塾のドアの前に立っていた。
前に来たときより、緊張は少しマシだ。
それでも、ドアノブを握る手のひらには、じんわり汗がにじんでいた。
「失礼します」
入ると、カウンターの奥から山本さんが顔を出した。
「お、安藤くん。時間ぴったりだね。
こっちのブース、空いてるからどうぞ」
前と同じ、仕切りで区切られた小さな机。
向かい合わせで座ると、山本さんがメモ帳とペンを取り出した。
「今日は授業じゃなくて、
“今の時点の地図を描く会”だからさ。
リラックスして話してくれればいいよ」
「地図……ですか」
「うん。
まだ目的地は決まってなくていい。
“だいたいこの辺の方向かな”ぐらいを、一緒に決める感じ」
そう言って、白紙のページの真ん中に大きく丸を描く。
丸の中に「今」と書かれた。
「じゃ、まず確認。
安藤くん、今考えてる選択肢ってざっくり何がある?」
「えっと……」
指を折りながら、口に出していく。
「四年制大学に行くか、
短大とか専門に行くか、
高卒で就職するか。
……そのぐらい?」
「うん。王道3パターンだね」
山本さんは、「大学」「専門・短大」「就職」と三つに枝分かれする矢印を描いた。
「この中で、“今いちばんピンと来ないのはどれ?」
「正直、全部ピンと来ないですけど……」
苦笑いしながら答えると、
山本さんも「だよね」と笑った。
「じゃ、逆に聞こうか。
“今の自分で想像したときに、いちばんしんどそうなのはどれ?」
少し考えてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「高卒で就職、ですかね。
働くのが嫌ってわけじゃないですけど、
この前、バイト先の店長と話して……」
石田店長の「働くのは逃げ場にならない」という話を、かいつまんで説明する。
「ちゃんと働くって、“逃げるため”に選んじゃダメなんだなって思って。
今の自分が、現実から逃げるために就職選ぶのは、たぶん違うかなって」
「なるほどね」
山本さんは、「就職」の矢印の上に小さく×印をつけた。
「“未来永劫なし”じゃなくて、
“今このタイミングでの第一選択肢ではない”ってことね」
「はい。そんな感じです」
「オーケー。じゃあ、“今の候補”はとりあえず進学側だ」
「……進学って言っても、
何勉強したいとか、全然ないですけど」
思わず本音が出る。
山本さんは、ペンの先で机を軽く叩いた。
「安藤くんさ。
“やりたいことはないけど、やりたくないことは出てくるタイプ”でしょ?」
「まあ、そうですね」
「じゃあ、大学の選び方もそれでいいよ」
「……大学も、“やりたくないことリスト方式”でいいんですか」
「むしろ、それがいい場合もある」
山本さんは、「大学」の矢印の先をさらに二つに分けた。
「大学で何を勉強したいか、じゃなくて。
“大学に行ってまでやりたくないこと”って、何?」
また同じ質問だ。
でも、不思議とさっきより答えやすい。
「そうですね……
理系のガチガチの実験とか、
研究室に泊まり込みとかは、たぶん無理です」
「うん、いいね。そういうの」
「あと、英語オンリーでディベートし続けるとか、
人前でずっとプレゼンするとかも、しんどそうです」
「なるほど。じゃあ、
“理系学部はかなり優先度低め”、“超コミュ力特化の国際系も今は違う”って感じだね」
紙の上に、「理工」「情報」「国際コミュ」などの単語が書かれ、
そのいくつかに斜線が引かれていく。
「逆にさ、
“これなら大学でやるのもアリかな”って思える科目、ある?」
「……うーん」
しばらく考えてから、ぽつりとこぼれた。
「世界史とかは、嫌いじゃないです。
覚えるのはしんどいですけど、
“昔の人もぐだぐだ悩んでたんだな”とか思うと、ちょっと面白いっていうか」
自分で言っておいて、
何を言っているんだろうと思う。
山本さんは、少し目を丸くして笑った。
「それ、めちゃくちゃ大事なヒントじゃん」
「え、そうですか?」
「そうだよ。
今の高校の勉強の中で、“嫌いではない”って言えるものって、
本当に貴重なんだから」
メモ帳に「世界史◎」「日本史○」と書き込む。
「じゃあ、文系寄りの学部で、
“歴史とか社会系がベースになってるところ”は、選択肢に入るわけだ」
「……なんか、そう言われると
自分の中に“設定”があるみたいで、ちょっと気持ち悪いですね」
「人間誰しも設定あるよ。
それを自分で気づいてるかどうかの差」
さらっと言われて、少しだけ納得する。
「じゃあさ。
今の話をふまえて、ざっくりこういう分け方はどう?」
山本さんは、メモ帳のページを新しくめくると、三つの枠を描いた。
1.「地元の国公立・文系」
2.「私立文系(歴史・社会・法律・経済あたり)」
3.「短大・専門まだノーアイデア」
「この三つを、とりあえず“候補のフォルダ”として持っておく」
フォルダ、という表現が、なんとなくしっくり来た。
「この中で、
“今の気分で一番マシ”なのはどれ?」
「一番マシ、ですか」
改めて紙を見てから、口を開く。
「……1と2ですかね。
3は、まだイメージがぼんやりしすぎてて」
「うん。じゃあ3は、今は“保留フォルダ”に入れとこう」
3の枠にうっすら丸が付けられ、「あとで調べる」の文字が添えられる。
「1と2の違いは、
主に学費と入試のタイプと、キャンパスの場所だね」
山本さんは、さらっと数字を書き込みながら説明していく。
国公立は学費が比較的安いけど、入試科目が多い。
私立は学部によって差はあるけど、学費は高くなりやすい。
家から通えるかどうか、一人暮らしになるかどうか。
さっきまで漠然としていた「大学」が、
少しずつ具体的な条件の集合に見えてくる。
「……こうやって見ていくと、
“国公立行けたらいいね”っていう親の気持ちも、
完全に無茶ってわけでもないんですね」
自分で言って、少し驚いた。
山本さんは、にやっと笑う。
「そうそう。
“親の希望=全部プレッシャー”みたいに感じる子も多いけどさ。
学費の現実とかも含めて、
“そう考えるよね”って部分も、ちゃんとある」
「でも、それに全部乗っかるのも違う、って感じで」
「そのバランスを探す作業が、今なんだよ」
ペンの先で、真ん中の「今」の丸をトントンと叩く。
「安藤くんの場合は、
・勉強で使える科目は、文系側に寄ってる
・働くことに興味はあるけど、“逃げ”として選びたくはない
・お金の話もちゃんと気になる
この三つが、今見えてる“設定”」
「設定って言われると、
ゲームのキャラ作ってるみたいですね」
「進路決めって、だいたいそんなもんだよ」
山本さんは笑って、メモ帳をこちら側に向けてくる。
「とりあえず、今日のゴールはここまで。
“大学か専門か就職か、全部ゼロから”じゃなくて、
“今は、文系進学寄りで考えながら、短大・専門も保留フォルダに入れておく”」
自分のことなのに、
他人の進行表みたいに整理されていく感覚が不思議だった。
「……なんか、まだ何も決めてないのに、
ちょっとだけ“マシになった感”ありますね」
ぽつりとそう言うと、山本さんはうなずいた。
「うん。“マシ”でいいんだよ。
いきなり完璧な答えなんて出ないから。
“昨日よりちょっとマシ”を積み重ねられるかどうかが、大事」
そう言ってから、ふと思い出したように続けた。
「そうだ。
近いうちにさ、君の学校の先生にも、
“別ルートの大人”紹介してもらえるかもしれないよ」
「別ルート?」
「うん。
西尾先生、前に言ってたんだよ。
“高校のあと一回就職してから、
進路を変えた元教え子がいる”って。
タイミング合えば、話聞けるようにしてくれるかも」
「ああ……」
登場人物紹介の中にいた、「宮崎さん」のことだろうか、と頭の片隅で思う。
「大学行くか行かないかだけじゃなくて、
“そのあとやり直すパターン”も知っとくと、
少し気が楽になるからね」
山本さんは、メモ帳を閉じながら言った。
「じゃあ今日はここまで。
このメモのコピー、持ってく?」
「……はい。欲しいです」
自分のことが書かれた紙を受け取る。
「ありがとう、こういうのまとめてくれて」
自然とそんな言葉が出た。
山本さんは、「どういたしまして」と笑った。
「また相談したくなったら、おいで。
塾に入るかどうかは、そのとき考えればいいから」
塾の出口を出ると、
夕方の空は、少しオレンジ色に染まり始めていた。
手に持った紙を、もう一度見る。
真ん中に大きく書かれた「今」。
そこから伸びるいくつかの矢印。
――全部決まってないけど、
全部真っ白でもなくなった。
そんな気がして、
深く息を吸い込んだ。
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