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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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八月十四日は、朝から蝉が鳴いていた。
長谷の寺の山門をくぐると、境内の百日紅が、白い砂利の上に、紅い花をこぼしていた。
冬馬様は、黒の紋付に袴。私は、鈍色の絽の色無地に、黒の帯。百合絵様も、今日ばかりは、釣鐘型の帽子を別荘に置いてきた。
本堂の前に、白河家の人々が並んでいた。
白い口髭の、背の高い老紳士。白河子爵だった。隣に、子爵夫人。その後ろに、詰襟の中学生が一人。千鶴さんの弟だという。
子爵は、冬馬様を見ても、眉ひとつ動かさなかった。冬馬様も、黙って深く頭を下げただけだった。
少し離れて、黒いドレスの麗子様が、日傘を畳んで立っていた。
手に、小さな向日葵の束を持っている。
「お寺に向日葵なんて、と叱られそうね。でも、あの子が一番好きな花だったの。暗い顔をした花は、嫌いだって」
麗子様は、そう言って、私の手に、一本だけ向日葵を押しつけた。
百合絵様は、白河家の中学生を見つけると、すぐにその前へ行った。
「透さんね。大きくなったわ。千鶴お姉様が、弟は泣き虫だって、いつも言っていたのよ」
「……もう、泣きません」
詰襟の少年は、むっとした顔で言い返した。それから、百合絵様の目が赤いのに気づいて、黙って自分の手拭いを差し出した。
本堂の中は、線香の煙で、薄く霞んでいた。
読経が始まった。
冬馬様は、最後列の端に座ろうとした。一周忌のときと同じように。
その袖を、子爵夫人が、そっと引いた。
「侯爵様。今日は、前へ」
冬馬様は、しばらく動かなかった。それから、子爵夫人に一礼して、白河家の人々の隣に座った。
私は、その後ろで、手を合わせた。
千鶴さん。来ましたよ。あなたの別荘へ。あなたの崖へ。
あなたの帯の中の紙も、見つけました。
*
法要のあと、庫裏の座敷で、精進の膳が出た。
胡麻豆腐が、つるりとして、ほのかに甘かった。私が、つい二切れ目に箸を伸ばすと、冬馬様が、黙って自分の皿を私のほうへ押しやった。
麗子様が、扇の陰で、くすりと笑った。
白河子爵が、盃を置いて、初めて冬馬様のほうを向いた。
「久遠寺君」
低い、よく通る声だった。
「家内から、聞いた。君の奥方が、千鶴の文箱を見に来たと。千鶴の親友だったと」
冬馬様は、膝の上で拳を握った。
「千鶴を、守れませんでした」
畳に、手をついた。
「申し訳、ございません」
座敷が、しんとなった。
子爵は、長いあいだ、冬馬様の後頭部を見下ろしていた。
「……顔を上げなさい」
子爵の声が、少しだけ揺れた。
「二年、君を憎んできた。憎むほうが、楽だったからだ。……奥方の目が、何かを見つけたのなら、それを最後まで見届けたまえ。千鶴のために」
冬馬様は、顔を上げなかった。上げられなかったのだと思う。
子爵夫人が、私を見て、小さくうなずいた。あの写真を、と唇が動いた。
私は、帯の上から、それを押さえて、うなずき返した。
帰りぎわ、山門の陰で、冬馬様が言った。
「華族会館に、手紙を出した。大正十年の来訪帳を、会員の名で借り出したいと」
十二日の夜、私が書き並べた紙を見たあとで、すぐに出したのだという。
「篠原に、受け取りに行かせる。明日の朝一番の汽車で、届く」
「旦那様」
「宗介の名が、本当にあるのか。この目で確かめる」
冬馬様は、山門の外の、白く光る道を見た。
「あれば、それでいい」
私は、何も言わなかった。
あれば、それでいい。その言葉の中にあるものを、私は、ちゃんと聞いた。
*
夜になって、冬馬様と二人で、岬の東屋へ上った。
提灯を一つ、冬馬様が下げた。月は、雲の陰にあった。
崖道は、昼とはまるで違う道だった。松の幹が黒い壁のように並び、足もとの木の根が、提灯の明かりの縁で、蛇のようにうねって見える。
千鶴さんは、この道を、一人で上ったのだ。暗いところが、大嫌いだったのに。
私は、冬馬様の袂を、ぎゅっと握った。
東屋の縁台に、白い桔梗を一束、置いた。
母の形見の小紋と、同じ花だ。今朝、ハツさんに頼んで、庭から切ってもらった。
潮騒が、崖の下から絶え間なく上ってくる。
冬馬様は、柵の際まで行って、私の手を引いた。私を内側に立たせ、自分が、柵と私のあいだに立った。
「そっちへは、寄るな」
低い声だった。
しばらく、二人で黙って、暗い海を見ていた。
沖に、漁り火が揺れていた。
「千鶴とは、家同士が決めた縁だった」
冬馬様が、ぽつりと言った。
「白河と久遠寺の、古いつきあいで。小夜子を亡くして、一年もたたないうちに、母上が決めた。私は、断る理由を探すのにも疲れていた」
提灯の火が、風に揺れた。
「千鶴は、よく笑った。この家に来ても、笑っていた。私は、それに応えられなかった。……愛しては、いなかった」
冬馬様の声は、潮騒に削られて、かすかだった。
「だが、死なせたくはなかった。それだけは、本当だ」
私は、黙って、冬馬様の手袋の手を握った。
冬馬様が、私を見下ろした。提灯の明かりが、下から、その顔を照らしていた。
灰色がかった黒い目が、揺れていた。
「君は、違う」
冬馬様の手が、私の手を握り返した。
「君が、この崖に立っているのを見ると、息ができない。……君だけは、どこへもやらない。離縁状を、君がいつ破るのかと、毎晩、それだけを考えている」
私は、何か言おうとした。
言葉の代わりに、冬馬様の胸に、額をつけた。
紋付の羽織から、線香の匂いがした。その奥で、心臓の音が、潮騒より速く鳴っていた。
千鶴さん。
私は、心の中で呼びかけた。
この人は、あなたを殺していない。
あなたを殺した人を、私が、必ず見つけます。あなたが帯に挟んで、最後まで持っていたあの紙に誓って。
帰りの崖道で、冬馬様は、一度も私の手を放さなかった。
提灯の明かりの輪の中に、二人の足もとだけが、ぼんやりと浮かんでいた。
別荘の門の前で、浴衣姿の百合絵様とお鈴が、団扇を持って待っていた。
「遅いわ、お兄様。お義姉さまを、崖から落としたのかと思ったじゃないの」
百合絵様は、そう言って、私たちのつないだ手を見て、にやりと笑った。
冬馬様は、手を放さなかった。
*
翌朝、八月十五日。
坂の下から、汗だくの書生が、風呂敷包みを抱えて上ってきた。
絣の着物に袴、丸眼鏡が、鼻の汗でずり落ちている。篠原さんだった。
「御前。会館の書記の方から、お預かりしてまいりました。二十日までに、必ずお返しくださるように、と」
「誠さん!」
奥から、百合絵様が、浴衣の裾を乱して駆け出してきた。篠原さんの顔が、汗とは別のもので、真っ赤になった。
篠原さんは、真柴さんには、百合絵様の夏の宿題を届けに行く、と言って出てきたのだという。
「本当に、宿題も持ってまいりました。大奥様から、お預かりして」
百合絵様の顔から、笑みが消えた。
差し出された算術の帳面を、百合絵様は、仇でも見るような目で受け取った。お鈴が、台所の陰で、こっそり笑いをかみ殺していた。
冬馬様は、その騒ぎに一度も目を向けなかった。篠原さんの抱えてきた風呂敷包みだけを、じっと見ていた。
風呂敷をほどくと、紺の布張りの、分厚い帳面が出てきた。表紙に、金の箔押し。「来訪帳 大正十年 自七月 至九月」。
座卓の上で、冬馬様が、頁をめくった。
七月。八月一日。八月十日。
指が、止まった。
八月十四日。
墨で書かれた名が、行ごとに、整然と並んでいる。
その中に、一行だけ、色の違う字があった。
筆の墨の黒ではない。わずかに青みを残した、見慣れた、青黒いインクの文字だった。
コメント
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もう、涙が止まらなかった。 三回忌の法要で子爵が「顔を上げなさい」って言ったところ、すごくじんときた。憎むほうが楽だったって…それが本音なんだろうな。 それから、東屋で冬馬様が言った「君だけはどこへもやらないって言った言葉が、本当に刺さった。愛してはなかったけど、死なせたくなかった…それだけは本当っていう告白、重くて優しい。最後の来訪帳のあのインクの文字が。 篠原さんと百合絵様のやりとりとか、細かいところも全部好きでした。続きが気になる…。