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遥は、日下部が差し出した学生証をしばらく見つめていた。文字は滲んで見えなかった。視界の中心がぼやけていた。

涙ではない。ただ、体が、温度を保てないだけだった。


「……何がしたいんだよ」


かすれた声に、応答はなかった。


それでも、遥は問いかける。


「俺が何考えてるか、知ってるくせに」


「俺が、おまえのことまで壊すって……わかってるくせに」


日下部は、ただ視線を下げ、机の端に指を添えた。

その仕草は答えだった。──「それでも、俺はここにいる」と。


遥は、そこで、初めて口の中を噛んだ。強く。

奥歯を軋ませながら、何かを閉じ込めるように。


(──俺が壊れる前に、こいつを壊してしまえばよかった)


ひどく、歪んだ感情だった。

けれどそれは、「好き」とも「依存」とも違う──遥にとっての“破滅の愛”だった。


「全部、消えればいいのに……」


その呟きが、どう響いたかはわからない。

だが日下部は、何も言わず、遥の前から視線を外さなかった。

否定もしなければ、肯定もしない。ただ、「逃げない」とだけ、示し続けていた。


遥の胸の奥がきしむ音がした。骨ではなく、過去が軋んだ。



数日後。教室に貼られた掲示物の一部が、何者かによって書き換えられていた。

「生徒間の問題に関する匿名通報フォーム」が、学校公式の形で改ざんされていたのだ。


“同級生に危害を加えている”

“特定の生徒が、別の生徒を監視・支配している”

“複数の生徒の証言があります”


そして、そこには──遥と日下部の名前が、はっきりと記載されていた。


教師が慌てて外そうとするも、スマホで撮られた画像は既にSNSに出回っていた。


「やっぱ本当だったんじゃん」

「先生たちも隠してたの?」

「日下部、裏で何やってたの」




匿名の、音のない暴力が、誰かの声色を持たずに形を帯びてゆく。

「事実」ではなく「演出」が、“現実”として流通する。


蓮司は、廊下の端からそれを見ていた。

制服の袖で軽く口元を隠しながら、小さく笑っていた。


「……演出ってさ、材料は最低限でいいんだよ」

「観客が勝手に、“もっと深い物語”を求めてくれるからね」



その日。遥の机は誰かの手によって前の列と数センチだけ離されていた。

それだけのこと。でも、それははっきりとした「拒絶」だった。


遥は、何も言わなかった。日下部も、動かさなかった。

けれどそのわずかな空白が──教室の全員にとっての“安全圏”になっていく。



そして、夜。日下部は自分の部屋で、机の引き出しを開けていた。


そこには、以前遥から受け取った、破れかけたノートの切れ端が挟まっていた。


──“おまえの優しさは、俺を殺す”


その言葉を、日下部は静かに見つめる。

指でなぞっても、消えない。痛みはそこにある。


それでも、彼は破らなかった。

ただ、それを見つめたまま、ある決意を固めていた。



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