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静かだった。蛍光灯の光が、棚に並んだガラスカプセルを白く照らしている。
その中には、売られた“感情”が詰まっていた。
喜び、悲しみ、恋心、怒り。
名前も顔も知らない誰かの「心のかけら」が、ラベルを貼られて並べられている。
受付カウンターの奥、少年がひとり、データ整理をしていた。
制服のネクタイをゆるめて、無表情なまま画面をスクロールしていく。
無駄のない指の動き。心を殺すような手つき。
そんな空気を、かすかな音が破った。
――カラン。
小さなドアベルが鳴って、女の子がひとり入ってきた。
「…もう受付終わってるけど」
少年がちら、と顔を上げた。
女の子は制服のまま、肩で息をしていた。
目の下にクマ。髪も少し乱れてる。だけど瞳だけは、やたらと澄んでいた。
「今日、どうしても来たかったんです」
「理由は?」
「命日だから」
「誰の?」
「わたしの、初恋の」
少年の手が止まる。彼女の言葉が、空気にひっかかる。
「名前は?」
「藤谷 澪。二ヶ月前にも来ました」
「…“恋愛感情 微量”を購入、か」
「うん。でもダメだった。
誰かの“恋”をもらっても、わたしの心は動かなかった」
澪はポケットから、封筒を取り出す。
札束と、申し込み用紙。
そこには、まっすぐな字で書いてあった。
購入希望:あなたの“初恋”
「ルール違反だよ」
「知ってる。
でも、あなたの初恋なら…
もしかしたら、わたしにも響く気がした」
「どうして?」
「あなた、感情を持ってないように見えるのに、
どこか、すごく“苦しそう”だから」
沈黙。
長い沈黙。
少年は、ほんのすこしだけ目を伏せた。
声は、さっきよりも静かだった。
「“初恋”っていうのは、売ったら終わるものなんだよ。
もう、二度と手に入らない」
「それでもいい。わたしはまだ“恋”を知らないから。
ねえ――
その気持ち、わたしに分けて」
受付のカウンター越しに、澪の指先がすこし伸びた。
触れない距離で止まったまま。
少年は、ゆっくりとカプセル棚の方を見た。
そこには、自分の“何もない”が整然と並んでいた。
「……考えさせて」
「待ってる」
時計の針は、夜の9時32分を指していた。