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第11話 混ざる世界
その夜の発信室は、
最初から少しだけ音が多かった。
発電輪のうなり。
針の立ち上がり。
板へ爪が触れる気配。
弱い灯りの唸り。
誰かが息を飲むわずかな擦れ。
いつもあるはずのものばかりなのに、
今夜は一つひとつが別々に立たず、
薄い膜みたいに重なっていた。
ナミオはラジカセを胸に抱え、
戸口の脇へ立った。
傷だらけの箱は、
ここ何夜かで急に重さを持ち始めた気がする。
前はただの拾いものだった。
次は変な音を拾う箱になった。
今は、光まで音にしてしまう箱だ。
箱の方は何も変わっていないのに、
見ているこっちの手つきだけが変わっていく。
ミツは机の前で板を並べていた。
通信板。
別板。
光の長さを刻いた板。
昨日の音へ変えた並び。
短い板が何枚も、順番を守りながら置かれている。
それを見ただけで、
今夜は一つでは終わらないとわかった。
「来た」
ミツが言う。
短い声だったが、
前みたいに追い返す感じはない。
「来た」
ナミオも同じように返す。
「今日は後ろじゃないの」
ユラが戸口の横から言う。
長い袖の中へ手をしまい、
頬のやわらかい線の上で目だけが起きている。
ミツは板の端を指で押さえた。
「今日は、見るところ多いから」
「触ってもいいってこと?」
「そこまでは言ってない」
「でも前より近い」
ミツは返さず、
代わりに喉元へ一度だけ指を当てた。
考える時の癖だ。
ハジメは壁際で薄い枠を調整していた。
額の布はいつもより少し低く、
目の下にうっすら疲れが溜まっている。
それでも指の動きだけは静かだった。
「今日は通信のあと、少しだけ光を見る」
ハジメが言う。
「少しだけって、だいたい長い」
トウヤが壁にもたれて欠伸を噛み殺す。
「今日は起きてろ」
カザンが輪の横で肩を回しながら言う。
「混ざるとこ、見逃すな」
「混ざるって言い方、もう嫌な予感しかしない」
トウヤはそう言いながらも、
眠そうな目は前よりずっと開いていた。
発電輪が回る。
床が微かに震える。
送受信台の針が起きる。
発信室の空気が、
一本の細い糸へそろっていく。
最初の確認音。
乾いた音。
そこへ、
今夜はナミオの耳だけが先に何かを拾った。
ざらつきではない。
揺れでもない。
もっと薄い、端の膜みたいなもの。
音の外側に、まだ音になっていないものが寄っている感じ。
「……いる」
ナミオが小さく言う。
ミツが横目で見る。
「何が」
「まだわからない」
「それ毎回言う」
「でも今回は」
ハジメが壁際から低く返した。
「今回は言わせとけ」
ミツは一瞬だけ眉を寄せたが、
通信を優先した。
アメリカから返る。
発電、維持。
外壁、良好。
地下熱、平常。
そこへ短い私語が混じる。
反復音、
作業者が机で真似する。
トウヤが思わず笑う。
「机で真似してんのか」
「やること同じだな」
カザンが輪を回しながら言う。
ミツは短く返す。
こちらも同様。
その返しの乾いた音のあとに、
ナミオはまた、薄い膜を聞いた。
通信そのものじゃない。
でも、通信のあとに消えきらず、
しばらくそこへ残っている何か。
「今の」
ナミオが呟く。
「何だよ」
トウヤが聞く。
ナミオは答えられない。
答える前に大中国から返ってくる。
地下熱、上昇。
収穫、維持。
人員、異常なし。
間。
件の歌、
作業終わりの休息時に使用。
使用。
その言葉に、発信室の空気が少し変わる。
歌うでもなく、
真似するでもなく、
使用。
大中国らしい固い言葉だ。
でも、その固さの中に
「もう異常ではない」がちゃんと入っている。
カザンが鼻で笑う。
「使用って何だよ」
ユラが袖の中で指を握る。
「でも、いい」
「うん」
ナミオが小さく返す。
「意味が変わってる」
ミツは板へ刻きながら言う。
「誤解じゃなく、用途になり始めてる」
その一言に、
ナミオの胸の奥で何かが少し深く動いた。
用途。
歌が用途になる。
意味ではないものが、
意味の側へ少しずつ移っていく。
でも、完全に説明できる形ではない。
その半端さが、
逆に今の世界に合っていた。
ロピから返る。
風、弱い。
星、見える。
外壁、維持。
間。
例の歌、
一部で別の節になる。
トウヤが吹き出す。
「変わってるじゃん」
カザンも笑う。
「もう向こうの歌だな」
ロピからもう一つ。
それでも同じものとわかる。
その返りに、
発信室が少しだけ静かになる。
違う節。
違う形。
それでも同じものとわかる。
意味ではないものは、
形が変わると消えると思っていた。
でも、歌は違う。
変わっても残る。
むしろ変わりながら残る。
ナミオはラジカセの角を指でなぞった。
拾った音。
意味のない信号。
半分歌。
今はもう、他拠点で別々の顔を持ち始めている。
中東は乾いた打ち方で返してきた。
観測、継続。
光、揺れあり。
件の音、長短の傾向一致。
ハジメの目が少しだけ細くなる。
ミツはすぐ返す。
こちらも確認。
中東から、短く続く。
音と光、
別物にしては近い。
その一文だけ、
研究の言葉なのに、妙に熱があった。
ナミオは息を止める。
別物にしては近い。
その言い方は、
はっきり同じだと言わないぶん、
余計に重い。
ハジメが壁際で低く呟く。
「向こうもそこへ来たか」
「そこって」
ユラが聞く。
「境目が曖昧なところ」
ハジメは針から目を離さない。
「音なのか、光なのか、信号なのか、歌なのか」
「全部かもしれないってとこ」
ナミオが言うと、
ハジメは頷いた。
最後に自治区。
間が長い。
歩いているのか、
止まって聞いているのか、
遠いままでも、向こうの姿勢だけは少し想像できる。
ようやく返る。
現在地、伏せる。
中継、可能。
耳、今日も無事。
そのあと、すぐに続く。
昨日の光の音、
もうあるか。
発信室の空気が動く。
ミツが一瞬だけナミオを見る。
止めるでも急かすでもない。
ただ、今どこまで言うかを測る目だ。
ナミオの胸が強く鳴る。
ハジメが低く言う。
「返せ」
ミツは板の端を指で押さえた。
「短く」
それは許可だった。
ナミオは一歩前へ出る。
ラジカセを机の端へ置く。
直接混ぜない。
でも、横で鳴らすことはできる。
昨日の並び。
光の長さから作った、低い音と高い音。
骨だけの、昼のかけら。
ナミオはつまみを回した。
ざ。
それから、
低い音が長く伸びる。
高く、短く。
また低く。
短い、短い。
長い。
発信室の中で、
通信の乾いた空気に、別の層が一枚重なる。
誰も喋らない。
輪のうなりさえ少し遠くなる。
キリが遠くでこれを聞いている。
そう思った瞬間、
ナミオの耳には自分の鳴らした音と、
まだ返ってきてもいない向こうの間とが、
もう重なって聞こえた。
音は切れる。
一瞬だけ、沈黙。
それから自治区が返す。
光なのに、
呼ぶ前の音だ。
ナミオの指が震えた。
キリはわかっている。
ただ「似てる」とは言わない。
光なのに。
呼ぶ前の音。
意味と意味でないもののあいだへ、
そのまま手を入れてくる返し方だった。
自治区から続く。
境目が薄くなる。
その言葉が発信室へ落ちる。
誰もすぐには動かない。
ミツの爪の短い指だけが板の上で止まっている。
カザンの輪を回す腕の筋が浮く。
トウヤは眠気を完全に失った目で送受信台を見る。
ユラは長い袖の中で指を強く握っている。
「境目」
ナミオが小さく言う。
「薄くなる、って」
ミツは息を吐き、
そのまま打ち返す。
こちらでも同感。
短い。
でも、その短さの中に今日は何かがある。
自治区から返る。
なら、
もう混ざっている。
その一文に、
発信室のどこかで微かな音がした。
たぶん誰かの喉だ。
たぶん誰かが、息を吸った。
音。
光。
通信。
歌。
信号。
意味。
意味でないもの。
それらのあいだに引かれていた細い線が、
たしかに少し薄くなっている。
ミツが板へ刻く。
音と光の長短、
複数拠点にて近似認識あり。
自治区より、
境目が薄くなるとの返答。
ハジメがその手元を見ながら言う。
「返答としては十分すぎるな」
「十分どころじゃない」
ナミオはまだ机の端へ手を置いたまま言う。
「混ざってるって、向こうも思ってる」
ミツは板から目を上げない。
「向こうだけじゃない」
その返しで、
ナミオの胸の奥が少しだけ軽くなった。
通信は続く。
水位。
輪。
地下菜。
外壁。
病人。
換気。
必要な言葉はいつも通り行き来する。
でもその今日は、
必要な言葉のあいだを、別のものが何度もかすめる。
アメリカから、最後に短い私語。
反復音、
もはや作業歌に近い。
ロピ。
別の節でも、
同じものとわかる。
大中国。
休息時使用、
精神安定に寄与。
トウヤが小さく笑う。
「精神安定って」
「大中国っぽい」
カザンが言う。
中東。
光の長短、
再現試験継続。
自治区。
耳だけでは足りなくなる。
その最後の一文が、
やけに静かに残った。
耳だけでは足りなくなる。
それはたぶん、
今夜この発信室にいる全員のことだった。
音を聞くだけじゃ足りない。
光を見るだけでも足りない。
板へ刻くだけでも、
意味を決めるだけでも足りない。
混ざり始めたものに、
前のやり方だけでは追いつかない。
通信が終わる。
針が伏せる。
輪が止まる。
発信室に残るのは、
人の呼吸と、
今夜いくつも重なった層の気配だけだった。
最初に喋ったのはトウヤだった。
「もう何が何だかわかんなくなってきた」
カザンが肩を回す。
「でも、前より嫌じゃない」
「嫌じゃないの」
ユラが聞く。
「うん」
カザンは床を見たまま言う。
「最初は、変な信号って感じだったろ」
「今は、誰かが何か作ってる感じする」
ナミオはその言い方に、少しだけ笑った。
「誰かって誰」
「おまえもだし、向こうもだし」
カザンは鼻の横をこする。
「光もかもな」
トウヤが吹き出す。
「そこまで行くと怖い」
「怖いけど、わかる」
ユラが言う。
ミツは板を閉じながら、
少し長く黙っていた。
そのあとで言う。
「管理の言葉だけじゃ足りなくなってる」
発信室が静かになる。
ミツがそう言うのは大きかった。
「秩序も要る」
「でも、それだけだと抜ける」
「今日のは、板の欄を増やす」
ナミオが振り向く。
「欄」
「音・光・通信の重なり」
ミツは短く言った。
「今までの分類だと収まらない」
ハジメが低く笑う。
「ようやくそこまで来たか」
「うるさい」
けれどミツの口もとは、
少しだけやわらいでいた。
食堂へ移ると、
今夜は鍋の前でも会話が止まらなかった。
保存食の塩気は変わらない。
地下菜は今日もやわらかすぎる。
それでも、匙を持つ手が、皿の上より先に会話へ向かう。
ユラが言う。
「混ざるって、いいね」
トウヤが即座に返す。
「雑じゃない?」
「雑だけど、今っぽい」
カザンが鍋をよそいながらナミオの皿を少し多くする。
「今日は何祝いだ」
「全部」
「雑」
「でも合ってる」
ナミオは皿を受け取り、少し笑う。
全部。
たしかにそうだった。
歌になったこと。
光が音になったこと。
通信がそれを受け入れ始めたこと。
誤解が変わったこと。
境目が薄くなったこと。
どれか一つじゃなく、
全部が今夜ひとかたまりになっていた。
ミツも遅れて座る。
板は脇に置いたまま。
でも、今日は食べる前に一度だけその板へ手を置いた。
「消したくないことが増えた」
それが、今夜のミツの第一声だった。
ナミオは少し驚く。
「板に?」
「板にも」
「たぶん、耳にも」
その言い方が少しだけぎこちなくて、
ユラがふっと笑う。
「いいじゃん」
「何が」
「ミツがそう言うの」
ミツは皿へ目を落とす。
「別に、感想を言ってるわけじゃない」
「言ってる」
トウヤが言う。
「もう言ってるよ、それ」
カザンも笑う。
「今日は板の人がだいぶ崩れてるな」
ミツはそれ以上反論しなかった。
その代わり、少しだけ耳が赤く見えた。
疲れか、灯りのせいか、たぶんその両方だ。
食事のあいだ、
ナミオは何度もキリのことを考えた。
光なのに、呼ぶ前の音だ。
境目が薄くなる。
耳だけでは足りなくなる。
向こうの返しは、いつも少し先へ手を伸ばしてくる。
説明ではなく、状態で返してくる。
そのせいで、こちらの言葉まで少しずつ変わっていく。
「キリ、何見てるんだろうな」
ナミオがぽつりと言う。
ユラが聞き返す。
「見てるって」
「音も聞いてるけど」
「今夜の返し、なんか見てる感じした」
トウヤが首を傾げる。
「見ながら聞いてるってこと?」
「たぶん」
カザンが頷く。
「おまえら、だんだん同じとこ行ってるな」
ハジメは食堂の戸口にもたれたまま、
最後まで皿を持たずに聞いていた。
「混ざるって、そういうことだ」
誰に向けたというより、
鍋の湯気へ落とすみたいに言う。
「片方だけじゃ足りなくなる」
ナミオはそれを聞きながら、
皿の豆をつぶした。
意味と意味でないもの。
音と光。
通信と歌。
今までは、どこかに線があった。
ここから先は通信。
ここから先は異常。
ここから先は歌。
ここから先は研究。
ここから先はただの雑音。
でも今夜は、その線が見えにくかった。
見えにくいのに、崩れた感じはしない。
むしろ、前より自然だ。
老爺の部屋へ向かう途中、
通路の灯りがいつもより少し揺れて見えた。
揺れているのか、
自分の目の方が変わったのか、
よくわからない。
布の戸をめくる。
熱と油のにおい。
老爺は起きていた。
膝の上にラジカセを置き、
指先で古い傷をゆっくりなぞっている。
「顔が散らかってるな」
ナミオは思わず笑った。
「いい意味?」
「たぶん」
「濃いたぶん?」
老爺が小さく笑う。
「今日はそうだな」
ナミオは床へ座り、
今夜のことを少しずつ話した。
ロピで節が変わったこと。
大中国で休息時使用になったこと。
中東で長短の傾向一致が返ったこと。
自治区で、光なのに呼ぶ前の音だと言われたこと。
境目が薄くなるという返し。
ミツが欄を増やすと言ったこと。
話しているうちに、
自分の言葉が前より滑らかになっているのがわかった。
説明しきれないのに、
説明したいことが多すぎる。
老爺は最後まで聞いて、
膝の上のラジカセを軽く叩いた。
「混ざったな」
「混ざった」
「どこで」
「全部で」
老爺は頷く。
「そうなると、もう分けた方が不自然だ」
その言い方に、
ナミオは胸の奥で何かが静かに落ち着くのを感じた。
分けた方が不自然。
たしかにそうだ。
今夜の音を、ただの信号と言うのは足りない。
歌と言うのも足りない。
光と言っても足りない。
どれも一部で、どれも本当だ。
「耳だけでは足りなくなる、って言ってた」
ナミオが言う。
老爺は目を細めた。
「じゃあ、次は何を使うんだろうな」
その問いに、ナミオはすぐ答えられなかった。
見る。
聞く。
打つ。
刻く。
鳴らす。
口ずさむ。
もういくつも使っているのに、
まだ足りない気がする。
部屋を出たあと、
ナミオは見張り小屋の下まで歩いた。
地上への戸は閉じたまま。
赤い砂は向こうに残っている。
昼の光も、泥化も、そのままそちら側だ。
けれど今夜は、
その向こうとこちらのあいだにも、
少しだけ新しい通り道ができた気がした。
ラジカセを胸に抱く。
低い音。
高い音。
乾いた通信。
口ずさまれる節。
板へ刻かれた欄。
耳だけでは足りなくなる夜。
ナミオは目を閉じた。
耳の奥で、
もう一つひとつの音は別々に鳴らない。
通信の乾いた打音へ、
歌のやわらかい残りが重なる。
光の長い線が、
低い音の骨になって残る。
キリの返した言葉が、
まだ誰のものでもないまま、
その全部の外側を包んでいる。
混ざる世界。
それはぐちゃぐちゃになることではなく、
今まで引かれていた線が、
少しずついらなくなることなのかもしれなかった。
通路の向こうで灯りが一つ消える。
また一つ消える。
最後の灯りが残るあいだ、
ナミオの胸の中では、
意味と意味でないものの境界が、
静かに、でもたしかに崩れていた。
コメント
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第11話めっちゃよかった…!!「混ざる世界」ってタイトルそのまま、音と光と通信と歌の境目がじわじわ薄れてく感じがたまらなかった😭✨ 特に「光なのに、呼ぶ前の音だ」ってキリの返しやばすぎ。意味じゃなく状態で返してくる感じ、ナミオと同じで私も胸震えた…。 それにミツが「消したくないことが増えた」って言ったシーン、あれだけで彼女の変化が全部伝わってくるのがすごい。管理の人ほど崩れると熱いね。 「分けた方が不自然」って言葉、めちゃ染みた。線が要らなくなるっていう世界の捉え方、好きすぎる。続き気になるよ〜!!
#一次創作
羽海汐遠
11,106
ころろん🍙🍀🫧
4,090