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「舞華……聞こえるか?」
オレは、ロープに寄り掛かりなが、リング下の舞華に声をかけた。
「は、はいっ!」
「オレのタオル、足元に置いてくれ」
「えっ、あっ! はい!」
首に掛けてあったタオルを、オレの足元に広げる舞華。
また足を滑らせるなんて事になったら目も当てられない。オレはタオルを右足で踏みつけるようにして、リングシューズの裏に着いた血を拭った。
まだ、完全にはモノには出来ていないフィニッシュムーヴ――
練習での成功率は約四割から五割。でもこの足じゃぁ、いいとこ二割……いや、一割程度あればいいほうか。
最初に来てくれよ――その十回に一回っ!!
※※ ※※ ※※
「オ、オイオイ佐野? その足で、アレをヤル気か? 確かにアレなら首へのダメージはないだろうど……」
佳華は、そんな言葉とはうらはらに、何かを期待するように目を輝かせた。
「アレ……? アレってなんだい?」
「んっ? ああ。佐野が大学に入った頃から練習していて、それでもまだ完全にはモノに出来てない、アイツのオリジナル・フィニッシュムーヴだ」
「あの小器用な男の娘が、四年も掛けてですか?」
「おおっ!? そいっあぁスゲェ~! どんな技なんだい?」
興奮気味の絵梨奈に、佳華はイタズラぽく笑った。
「まっ、一言で言えば、月面水爆――ムーンサルトプレス(*01)だな」
「ム、ムーンサルトプレスゥ……」
ありありと落胆の声を出す絵梨奈。
ムーンサルトプレス――リング上で仰向けにダウンする相手へ、コーナーポストの最上段から後方宙返りでボディプレスを極める大技。
難易度は高いが技の威力も大きく、なにより技の派手さや華麗さも有り、この技を決め技にする選手も多い。
得に軽量級の選手には使い手が多く、近年では割りとポピュラーな技になっている。
「イヤ、確かに難しい技だし、アタイがヤレって言われても出来ないけどさぁ」
「…………」
あからさまに拍子抜けして、ガックリ肩を落とす絵梨奈に対し、詩織は釈然としない表情を浮かべていた。
ムーンサルトプレスは確かに難易度の高い技ではある。
しかし、佐野はそれよりも遙かに高難度の技――ダウンしている相手にではなくスタンディングの相手に対して放つムーンサルトアタック。場外にムーンサルトアタックで飛ぶ、バミューダ・トライアングルやラ・ケブラーダも出来る。
その彼がムーンサルトプレスを使いこなせないなんて事があるのだろうか?
いや、それだけじゃない。第一試合で山口舞華がフィニッシュに使ったヴァルキリースプラッシュ。
これはムーンサルトプレスに180度の捻りを加え、より硬い背中から落ちるという、ムーンサルトプレスを更に高難度にした派生技である。そして、その技を彼女に指導したのは他でもない佐野自身だ。
ヴァルキリースプラッシュを新人に指導出来るほどに使いこなす彼が、基本のムーンサルトプレスを使いこなせないなど理論上あり得ない。
「ところで……何であの技は、ムーンサルトプレスって言うんだろうなっ?」
「えっ?」
佳華の独り言のような問い掛け。詩織は質問の意図が分からず、聞き返すように短い声を発した。
「いや、佐野と呑みに行くと、アイツが口癖みたいに言うセリフなんだよ」
「んん~。そりゃあ、あのクルって一回転するところが、月みてぇだからじゃねぇか?」
「まあぁ、どういう意図でそう呼んだのか正確には分からんが、おそらくはそんなトコだろうな」
珍しく絵梨奈の答えを肯定しつつ、更に佳華は言葉を続けた。
「ただ、ムーンサルトっていうのは本来、体操競技の技なんだよ」
「ムーンサルト――月面宙返り。正式名称ツカハラ。確かミュンヘンオリンピックで塚原光男が発表した、後方二回宙返り一回捻りの通称ですね」
「二回宙返りに一回捻りって……そんな事、出来んのかい?」
詩織の解説に、絵梨奈は驚きの声を上げた。確かに体操競技などあまり見ない人間にとっては、信じられないような事だろう。
「体操の選手ってぇーのは、それをやるんだよ。それも、何の器具も使わない床の演技でもな――特に佐野は中学高校と、部活で体操をやっていたからな。後方一回転のボディプレスをムーンサルトプレスって呼ばれるのには抵抗があるそうだ」
「その気持ちは分かります。腐女子がアキバ系と言われるようなモノですね――ヲタクは全てアキバ系だと思われている事には、わたしも納得出来ないモノがあります」
「なるほど。ウチのかぁちゃんが、テレビゲームを全部ハミコンって言うみてぇなもんか……確かにアレはちょっと腹が立つ」
ちょっと違うような気もするが、佳華は特にツッコまずにスルーをした。
「とはいえ、本来の月面宙返りをプロレスのリングで再現するのは不可能でしょう。後方へ二回転する『ダブルローテーション・ムーンサルトプレス』なんて技を使う選手もいますけど、それだって全世界的に見ても数人程度。助走もナシで、そこへ更に一回転のひねりを加えるなど出来るワケが有りません」
「確かにな……でも、助走を加えたらどうだ?」
詩織の否定的な解説。その解説に佳華が一つ仮定を提示した瞬間、佐野は一度背中のロープへと体重を掛け、その反動を利用して走り出した。
「い、いえ……それでも不可能です。体操の床とリングでは、広さが違い過ぎます……助走距離が足りません……」
口では否定しつつも、詩織の目はスクリーンに釘付けになっていた。
その信じられないモノを見るような瞳に映るのは、ダウンするかぐやの上を側転しながら飛び越えて、反対側のロープへ背を向け着地する佐野の姿。
その姿に、佳華は更にもう一つ仮定を付け加えた。
「じゃあ、助走距離が足りない分をロープの反動で補ったとしたら?」
「………………」
詩織はもうそれ以上、否定の言葉を口にする事が出来なかった。
ロープを背に着地した佐野は、そこから半ひねりを加えた後方宙返りで、リングを背にトップロープの上へと飛び乗ったからだ。
佐野の体重を受け、下へと大きく沈むロープ。そのロープが有るべき位置へ戻ろうとする反作用と供に、佐野の身体が大きく宙を舞った。
『佐野っ! トップロープの上から飛んだーっ! な、なんだ、あの高さはぁぁぁぁぁーっ!?』
佐野の身体は、詩織が見た事のないような高さまで――プロレスの試合ではあり得ない高さまで舞い上がった。
そして、その信じられないような光景に、観客達は息を飲み静まり返る――
「あれが佐野の――佐野だけのオリジナル・フィニッシュムーヴ。シン・|月面宙返り式ボディプレス《ムーンサルトプレス》だ」
※※ ※※ ※※
仰向けにダウンするわたし……
ボヤけた視界に映るのは、リングに向けられた無数のライトたち……まるで夜空に浮かぶ、散りばめられた星々のようだ。
そして、その星々の中にシルエットが浮かんだ。月面を描くよう優雅に舞う、美しき舞姫を思わせるシルエット。
優しい月からかぐや姫に捧げられる幻想的な舞い……
「アハハ……女のわたしより綺麗に見えるって、どういう事よ……バカ優人」
まるでスローモーションのように流れる美しい舞いに魅了されながら、わたしは力なく笑った。
そして……
(*01)ムーンサルトプレス
コーナーポストの最上段からリングのマットに対して背中を向けた状態からジャンプし、バック転をしながらリング上に横たわっている対戦相手めがけてボディ・プレスを仕掛ける。
技を仕掛ける側の円弧を描くような動きが技の名称の由来となっている。