「そ、そういう俺だってな、集団行動が嫌いなのにこれから毎日打ち合わせだ部下に指示だ、って神経すり減らさなきゃならないんだぞ」
「それだけ求められる人ってことですよ。いいですね。というか、課長はきっと大丈夫ですよ。言うほど人嫌いに見えないですし、口もうまいし」
現に引っ込み思案なわたしもすぐに打ち解けてこんな会話できちゃってるし。
「あーあ、いいですね敏腕は。わたしみたいなダメ社員とは大違いですねー」
「キミ、もう酔ってる?」
「酔ってないですよー」
とツンとそっぽを向いてみる。
いや、うん…正直、酔ったようです。
なんだか頭もぽっとする。
飲みやすいからそんなに強くないと思って、気づけばもう飲み干しそうだし。
いけない。
いけないぞ、亜海。
つい場に飲まれて飲んでしまったけど、ここは男の人の部屋だ。
しかも、誰も知らない秘密の部屋。大声出そうがなにしようが、誰にも気づいてもらえない。
「…わたし、そろそろ帰りますね」
にわかに不安になってきて、そそくさと立ち上がった。
玄関にむかおうとしたけれど。
ぱしっ
手を掴まれた。
課長がにこやかに笑っていた。
「だから帰るのはまだ早いって言ってるだろ?本題が残ってるんだけどな」
本題?これから?
ひきつった顔を浮かべているわたしに、キャラメル色の瞳がたくらむように細まった。
「まさかご飯作ってもらうだけで免じてもらえると思った?ビジネスの世界わかってないね。やっぱりダメ社員だよ、キミは。あんなこと、今から提示する本題の前振りに過ぎなかったんだけど?」
「ど、どういう…きゃっ」
ぐい、と手を引かれてつんのめった。
酔ってふらつき始めた身体は、あっけなくバランスを失って倒れ込む。
課長の腕の中に。
「…今からキミに、特別な残業を命じる」
よく聞け、とのばかりに、課長の指がわたしのあごを持ち上げた。
「キミはこれから毎日、この部屋に来て、こうして俺に尽くすこと」
つ、尽くす…!?
「そ…それって、お手伝いさんみたいに働けってことですか?」
「ふふ…お手伝いさんか。まぁそう言うことになるのかな。俺だけのお手伝いさん」
愉快そうに言いながら、指でわたしの頬を撫でる。
くすぐったくて…胸が苦しくて、息が詰まりそうになりながら、わたしはすこしかすれがちに低くなった課長の言葉を聞く。
「さっきも言ったけど、俺はこれから多忙になる。きっと身の回りのことも満足にできないほどだと思う。だから、俺の言うことをなんでも聞いてくれて、俺に徹底的に尽くしてくれる有能な人材がほしいんだ。特に料理が得意な人物が希望でね。疲れて帰った夜には、栄養があって、美味しくて、温かくなるものを作ってくれる人物…キミが最適だと思った」
「…」
「キミはこれから毎晩、退勤後にこの部屋に来て料理を作る。そして俺とふたりで一緒に食べるんだ」
もう、なにを言っているのか、解からない。
酔いのせい?
それとも、課長のこの糖度たっぷりな瞳のせい…?
「もちろん命じたからには相応の代償は払うよ。もし、キミが先輩から残業を押し付けられたら、俺がやっつけてあげる。それだけじゃなく、キミに降りかかる理不尽なことは、全力で解消してあげるよ。どう?悪くないと思わない?適材適所が叶った効率的な内容だ」
「こ、困ります…そんな」
「困る?いいね。俺、キミを困らせるの、好きだよ」
「からかわないでくださいっ」
たまらず、課長を突き飛ばそうとした。
でも、スラリとした身体はびくとも動かなくて…むしろぎゅうと抱き寄せられてしまった。
「嫌とは言わせない。これは上司の命令だ」
「そんな」
「『はい』は?早く言いなさい」
立場を笠に着た威圧的な言葉。
けど、その顔は微笑んでいた。
熱のこもった甘いキャラメル色の瞳で、わたしをじっと見つめていた。
憤りも融け消えるような、きれいな笑顔。
まるで王子様だ。
腹黒いイジワルな王子様。
もう苦しくて、わたしはうなづくように視線をそらした。
「どうしてわたしなんですか…。他にも尽くしてくれる女の人はいるでしょ…」
「そんなの決まってるよ。キミじゃなきゃ、ダメだからだ」
課長はわたしを解放すると、キッチンに行って冷蔵庫からボトルを取り出した。
「悪いのは、そう思わせたキミだよ」
ポン、と小さく音がして、課長は新しく出したグラスに中身をそそいた。
「じゃ、契約成立。もう一度乾杯といこうか」
そうして差し出されたシャンパンを、
もう、どうにでもなれ。
と自棄になって、ぐいっとあおった。
芳醇なアルコールを含んだ炭酸は、波乱な日々を暗示するかのように、強い刺激を喉に残したのだった。
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