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部屋に入った私は早速、持参していた下着や部屋着をカバンの中から取り出そうとして気づく。
「なんだ。浴衣があるじゃない」
バスルームのドアを開ければそこには、フェイスタオルとバスタオルもちゃんと用意されている。
バスタブに湯を張りながら、私はシャワーを浴びた。シャンプーを取ろうと手を伸ばした時に、壁面に取り付けられている鏡に上半身が写った。見慣れた自分の体だというのにはっとする。首にはまだ赤みが残っていた。今日着ていたブラウスはフリルの着いた立ち襟だから、髪をおろしてしまえば他人に気づかれはしなかったはずだが、こうして見るとやっぱり分かってしまう。ふと目を落として見た体には、紫がかったあざや噛み痕と分かる痕が点々と散っていた。
「こんなの、絶対に違う……」
自分の体をいたわるように洗いながら、哀しい気持ちに囚われた。
バスルームを出てベッドに足を向けた時、充電中の携帯が鳴った。
どきりとして足が止まった。恐る恐る覗き込んだ画面には、太田の名前が表示されていた。出ようか出るまいか躊躇しているうちに、音が鳴り止んだ。その隙に着信履歴を見ると、懇親会が終わった辺りの時間から、太田の名前ばかりが並んでいた。
一気に重い気分になって、ベッドに腰を下ろした。その途端に再び着信音が鳴った。見なくても分かる。太田からに決まっている。このまま無視を続けようかと思った。私は今、離れた場所にいる。電話に出ないからと言って、太田がわざわざここまでやって来ることは、いくらなんでもないだろう。
だけど、帰ってからは――?
宣言するように別れの意思を伝えはしたが、結局は彼とは平行線のままだ。この前のように、待ち伏せでもして部屋までやって来ることが容易に想像できた。その時に彼をうまくかわせる自信はない。もしもこの前以上にひどいことをされたら?男の人の力には到底かなわないのだ。私はごくりと生唾を飲み込み、震える手で携帯を取り上げた。
「もしもし……?」
電話に出なかった理由を冷えた声で追及されるかと思ったが、案に相違して、太田の声は恐いくらいに優しかった。
―― あぁ、笹本。やっと電話に出た。何かあったのかと思って心配だったんだ。
張り付きそうになる声を励ましながら、私は言う。
「私、別れると言ったはずですけど……」
―― 俺はうんとは言っていないよ。
太田はやけに優しい声で言う。
その声に恐怖心を煽られる。
―― 明日の夜に戻って来るんだったよな。
「えぇ、でも会いませんから……」
私は携帯をぎゅっと握りしめながら。固い声で言った。
すると、ひと呼吸ほどの間があった後、太田はため息まじりに言う。
―― 本気なのか?でも俺は別れるつもりはない。
「何度も言ったように、私はもう、太田さんとは付き合えません」
どうしたら分かってもらえるんだろうと、苦しい声で言う私に、太田は探るように訊いてきた。
―― なぁ、北川と何かあった?
「何もありませんよ。仕事で来てるんですから」
私は即座に否定した。新幹線の中でのことや、懇親会後に手をつないでホテルまで歩いたこと、ますます拓真に心を寄せるようになっていること……。それらが「何かあった」ということになるのなら、余計に太田になど言うわけがない。
―― ふぅん……。
私の言葉を太田が信じていないことは分かった。さらに問い詰められるかと思い身構えたが、彼はあっさりと引き下がった。
―― まあ、いい。明日の夜に会いに行く。その時もう一度話し合おう。それじゃ、おやすみ。明日一日、仕事頑張って来いよ。
私の返事を聞かずに一方的にそう言って、太田は電話を切った。
話し合おうなどと言ってはいたが、きっとまた同じことの繰り返しになるだろうと、暗い気持ちで予想する。彼が別れないと言い続けるのであれば、彼と話すことはもう諦めた方がいいのかもしれない。諦めて心を騙して太田と付き合い続けるのは絶対に無理だ。そうなると他の選択肢は。
……逃げる。
その言葉がぱっと頭に浮かんだ。
だけどどうやって?
このまま一緒の職場にいてはそれは難しい。太田から完全に逃げたいのであればと、転職や引っ越しのことにまで考えが及ぶ。
考えれば考えるほど暗い沼の中に堕ちて行きそうで、何かに、誰かに縋りつきたくなった。そう思った次の瞬間には、私はカードキーだけを手に、部屋を飛び出していた。向かった先は拓真が泊まる部屋。ドアをノックしてしまってから我に返る。心細くなって、衝動的に彼の部屋の前まで来てしまった自分の弱さが恥ずかしくなる。
私ったら何やってるんだろ――。
冷静にならなければ、落ち着かなかればと自分に言い聞かせつつ、彼の部屋の前から去ろうとした時だった。ドアが開いて拓真が顔を覗かせた。私を認めて驚いた声をもらす。
「碧ちゃん……」
拓真は急いでさらにドアを押し開いた。
私の様子に異変を感じ取ったのか、拓真の表情が険しいものに変わる。
「何があった?」
私はすぐさま笑顔を貼り付け、首を横に振った。やっぱり拓真に迷惑とこれ以上の心配はかけられない。
「ごめんなさい、なんでもないの。明日のことで、聞き忘れたことがあったって思って。だけどよく考えてみたら、明日の朝でも大丈夫な話だったから……。ごめんね、ドア、開けさせちゃって。おやすみなさい」
作り笑いのまま自分の部屋に戻ろうとした私を、拓真の声が引き留めた。
「待って」
肩越しに見た拓真は、ドアを開けたまま私に向かって手を伸ばしていた。
「こっちにおいで」
躊躇する私に拓真は優しい苦笑を見せる。
「おいで」
もう一度かけられたその声に引っ張られるように、私の足はふらりと拓真の方に向いた。
彼は私の手を取ると、自分の方へ引き寄せた。そのまま部屋の内側に入り、ドアを閉める。
「いったいどうしたの?」
拓真は私をそっと腕の中に入れて、背中を撫でてくれた。彼から漂うシャンプーらしき匂いとほかほかとした温もりに、様々な不安が和らぐような気がした。
「体、冷えてるじゃないか。ちゃんとお風呂に入った?ここで入っていきなよ」
「そ、そんなわけには……」
私は慌てて拓真から身を離した。
「大丈夫よ。自分の部屋で入り直すから」
「そう言ってそのまま寝るつもりなんだろ?風邪なんか引いたら仕事に差し支えるよ。それに」
拓真は私の頬を手のひらで包み込むようにして撫でる。
「泣きそうな顔をしていたよ。本当は俺に何か話したいことがあるんじゃないの?話せば少しは気持ちが楽になるかもしれないよ?とにかくまずは風呂に入って、しっかりと温まっておいで。タオルはそこにあるのを使って」
「あの、でも……」
ぐずぐずしている私に、拓真はにやりと笑った。
「なんなら俺が風呂に入れてあげるけど?」
「い、いえっ、一人で大丈夫!」
瞬時にして頬がカッと熱くなり、私は拓真から逃げるようにバスルームのドアを開けて中に足を踏み入れた。ドアを閉めてからはっとする。
しまった、乗せられた……。
しかし、拓真の前では素直に振舞えなかったけれど、本心では彼の気遣いが嬉しかった。追い返されなくて良かったと思う。彼ヘの返事を保留にしているくせに、こんな風に甘えるのはずるいことだと分かっている。けれどせめて今夜だけ、少しだけ、とその罪悪感をなだめすかしながら、私はお湯を張ったバスタブに体を沈めた。
湯船に浸かりすっかり温まった私は、水滴を拭った肌に浴衣を再び身に着けた。髪の乱れを直そうとしてのぞいた鏡に自分の姿が写り、思わず目をそらす。首にまだ残る痕は、襟をしっかりと押さえていないと見えそうになる。拓真には知られたくない、やはりここに来るべきではなかったと後悔し始める。私は襟元をかき合わせながらバスルームを出た。
「ありがとう。私、戻るね。お風呂に入りに来たみたいになっちゃって、ごめんね。ご迷惑をおかけしました……」
私は首をすくめながら早口で言い、そそくさとドアノブに手をかけた。しかし拓真に引き止められた。
「待って。碧ちゃんの話を聞かせてほしい」
私は彼に背中を向けたまま答えた。
「それはさっきも言った通り、明日でもよかった話だから……」
今、彼の顔を見てしまったら、きっとすべてを打ち明けたくなってしまうーー。
そうしてしまう前に早く、このドアを開けて自分の部屋へ戻らなければと思う。それなのに足が動かない。息を詰めてうつむいていると、拓真が私の方までやって来た。
「それなら、このまま寝るのもつまらないから、少しだけ俺の話し相手をしてってよ。ペットボトルのお茶だけど、今用意するから。それを飲み切るまでの間だけでもいいから。だめかな?」
背後で聞こえる拓真の声が心地よくて、もう少しだけこの声を耳にしていたいと思った。少なくともその間は、太田のことを忘れていられる。
「……分かった。じゃあ、少しだけ」
「ありがとう。こっちに座って」
拓真に手を引かれて、私は部屋の奥に足を踏み入れた。彼に促されるがままにベッドに腰を下ろす。
「ちょっと待ってて。あと、これ、羽織り物代わりに」
拓真はそう言うと、持参してきていたらしいトレーナーを私に渡してよこした。それから冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出す。
私は彼のトレーナーを首回りまで寄せるようにして背中に羽織った。その時ふと鼻先をかすめる匂いに気づく。
拓真君の匂いかしら……。
どきどきしながら待っていると、お茶を入れたグラスが私の目の前に差し出された。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取ったグラスに口をつけて、一口二口お茶で喉を湿らせた。その後ベッド脇のサイドテーブルにグラスを置く。
視線を感じて顔を上げればそこには、私を見守る拓真の目があった。騒がしくなる鼓動を落ち着かせたくて、もう一口お茶を飲もうとグラスに手を伸ばした。ところが目測を誤って手が滑った。グラスを守ろうとしたが完全には間に合わず、こぼれたお茶が私の膝から下を濡らした。