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「お母さん、大丈夫?」
息子が心配そうに私の足首を覗き込む。
「大丈夫! ちょっと、ぐきってなっただけだから、明日には治るよ」
「……」
今更、日頃の運動不足を嘆いても仕方がない。
昨日、部屋の中で湊とサッカーをしていた私は、思うように動かない身体に苛立ち、ムキになり過ぎた結果、転んで足首を捻った。
豪快に転んだものだから、築三十五年の家が軽く揺れたほど。
捻ってからすぐに湿布を貼っていたのだけれど、今朝はくるぶしが少し腫れている。
情けない。
バスケ部だった学生時代は、何キロも走った後にドリブルやシュート練習をして、更に試合《ゲーム》までしていたのに、八畳間の端と端でボールを蹴っていただけで息が上がり、左右に振られて転ぶだなんて。
はぁ、と自己嫌悪のため息をつく。
せっかくの連休に、息子と遊んでやれないどころか、暗い表情をさせてしまうなんて。
「湊」
「ん?」
「来週、サッカーボール買いに行こうか」
「……いいよ」
イントネーションからして、『いらない』の意味のいいよ。
「どうして?」
「別に――」
ピーンポーン
インターホンが鳴り、お母さんがモニターを覗く。
「あら、匡ちゃん」
「え?」
「匡!?」
湊がぱあっと表情を変え、一目散に玄関に駆けていく。
会う約束はしていない。
この連休は忙しいと言っていた。が、確かに玄関から匡の声が聞こえる。
「お邪魔します」
リビングで、野球を見ながらL字ソファを私と二人で占領していたお父さんが立ち上がり、姿勢を正してソファの端に座り直した。
お父さんは、離婚して帰ってきた娘がすぐに恋人を連れてきたことに戸惑っていて、だからといって嫌な態度をとるわけでもなく、ただ落ち着かない様子。
「こんにちはー」
少し頭を低くして入って来た匡は、ネイビーのTシャツにベージュのスラックスといういで立ち。一緒に入って来た湊の手には、サッカーボール。
「どうしたの!?」
私と匡が、声を揃えて言った。
匡は私の足、私はサッカーボールのことを言ったのだ。
「匡がくれた!」
湊がネットに入ったサッカーボールを両手で持ち上げて言った。
あまりにタイムリーなプレゼントに、私は驚き、湊は大喜び。
「千恵、昨日湊とサッカーしてて転んだのよ」
匡の問いに答えたのは、お母さん。
転んだ原因のふわふわボールまで見せるから、恥ずかしくてたまらない。
「大丈夫か?」
「匡こそ、仕事じゃなかったの?」
「ああ、終わらせてきた」
それにしても何の連絡もなしに来るなんて、初めてだ。
匡はお父さんに「今日は勝てそうですか?」なんて聞きながら野球に視線を向けた。
「匡! サッカーしよう」
湊がそわそわしながら誘う。
「おう」と匡が湊の頭に手をのせた。
ただ、それだけだ。
匡が湊の頭を撫でただけ。
それだけの光景が、なんだか信じられなくて、でも嬉しくて、胸を締め付ける。
匡が湊にサッカーができる場所を聞き、湊が学校のグラウンドを指定する。
少年団などで使っていなければ、解放されているはずだ。
「千恵。湊とサッカーしてくるわ」
「うん」
満面の笑顔でサッカーボールを抱きしめ、匡の足元から離れない湊は、どこからどう見ても父親と遊びたがる息子の姿。
「湊」
「うん?」
「良かったね」
「うん!」
寝そべったまま二人を見送った。
窓から見ていると、湊が匡になにか話している。
「湊があんなに懐くとは思わなかったわね」
お母さんがコーヒーの香りが漂う私のマグカップを、テーブルの端に置く。
「帰ってきたら、パパって呼んでるかもね」
「それはさすがに……」
マグを手に取り、口に運ぶ。
「匡ちゃん、いい父親になれそうじゃない」
「……そうだね」
匡が子供を望めない身体であることは、初対面で彼自身が両親に話した。
その上で、梨々花と湊を精いっぱい可愛がって育てたいと。
梨々花は、私が匡と再婚することに反対はしていない。
ただ、また引越ししなきゃいけない、とか、名字が変わるのはなぁ、とか言っているだけ。
私ではなくお母さんにこっそり言っていたそうなのだが、梨々花は実父《紀之》より十歳も若い匡が新しい父親になることを、少し喜んでいるらしい。
その話を聞かなくても、匡がとあるアーティストのコンサートのアリーナ席を取れると話した時の食いつきようを見れば、わかっていたが。
トーウンコーポレーションが、梨々花が好きな男性グループのコンサートでスポンサーになっており、関係者席を取れるというのだ。
ま、そうでなくても……。
東京を去る間際、義母が教えてくれた。
あの日、病室で紀之から私を庇って頭を下げた匡のことを、『ドラマみたいで格好良かった!』と話していたことを。
義母には複雑だったろうが、私は純粋に嬉しかった。
「ただいまー」
ちょうど十二時からのテレビ番組が始まった時、梨々花が帰ってきた。
匡と湊が出て行って一時間ほど経っている。
匡もお昼を食べるだろうと、私とお母さんはお好み焼きの準備をしていた。
お母さんは台所でフライパン、私はダイニングでホットプレートで焼いている。
「お好み焼き!」
「そ。ね、匡と湊を見なかった?」
「ううん? 匡ちゃん来てるんだ」
「うん。サッカーするって出て行ったんだけど」
「公園にはいなかった」
「学校のグラウンドに言ってるはず」
梨々花が言っている公園は、家と中学校の間にあり、小学校は中学校とは反対方向。
そのうち帰って来るでしょ、と梨々花は先に焼けたお好み焼きのお皿を自分の前に引き寄せた。
「いただきまーす」
梨々花はソースとマヨネーズ、鰹節をたっぷりかけて、大きな口を開ける。
本人には言えないが、梨々花は札幌に来て太った。
東京では学校の後に塾や習い事があって、おやつなんてほとんど食べなかったのに、今は部活の後でお腹を空かせて帰って来るから、晩ご飯の前にパンやらスナック菓子やらをぺろりと食べてしまう。
お母さんは、子供らしい健康的な体型でいい、と言うけれど、買ったばかりの制服がきつくならないか心配だ。
「ただいまぁ」
「おかえりぃ」
玄関ドアが開くと同時に湊の声が聞こえた。
すぐに動けない私の代わりに、お母さんが出てくれる。
「あらぁ、派手に汚してきたねぇ」
グラウンドに行くと言っていたから、またも靴を真っ白にしてくるだろうことは予想していた。
休日は水をまかないから、砂埃がすごい。
足を庇いながらゆっくりと玄関に行き、予想を裏切る汚れっぷりに言葉を失った。
靴だけじゃない。
ほぼ全身真っ白。