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「ただいま」
尽が帰宅すると同時。ニィーという声がして、ハチワレ模様の仔猫がすり寄ってきた。
天莉を休ませていた間、一人マンションで寂しそうに自分の帰りを待っている彼女の姿が気になっていた尽だったのだけれど。
この白黒の仔猫は、まるでそのタイミングを見計らったように尽の目の前に現れた捨て猫だった。
拾ってすぐ、直樹に頼んで最寄りの動物病院で健康診断なども済ませて連れ帰ってきたその仔猫は男の子で、生後一ヶ月くらいで離乳も済んでいた。
「オレオぉ~。置いて行かないでよぉー」
そんなことを言いながら、髪の毛を緩っとサイドで束ねた天莉が、スリッパの音を響かせてパタパタと駆けてきて、尽を見るなり嬉しそうに「お帰りなさい」と微笑むから。
尽はその笑顔で一瞬にして今日一日の疲れが全て吹き飛んでいくのを感じた。
それと同時、ついイタズラ心が顔を覗かせてしまう。
「オレオの方が、天莉より俺のことを好きみたいだ」
言って、スーツを這い上ってこようと爪を立てる仔猫を「痛いぞ?」と言いながら抱き上げたら、天莉がぷぅっと頬を膨らませた。
「オレオは駆けつけるだけでいいから」
食事の準備の真っ最中だったのだろう。
スモークピンクのワンピースエプロンを身に着けた天莉の濡れた手元を見て、尽はククッと笑った。
「すまない、天莉。冗談だ」
言って、オレオを片腕に抱いたまま天莉の愛らしい唇に掠めるだけのキスを落としたら、二人の間でニャーと抗議の声が響いた。
「尽くんの意地悪」
「おや、今頃気付いたのかね?」
ふっと笑いながら小首を傾げてみせた尽に、小さく吐息を落とした天莉がふるふると首を横に振った。
「まさか! 出会った時から知ってたわ。――ね、尽くん。もうご飯にしちゃうから手、洗って来て?」
夕飯を摂りながら、今日一日あったことをお互いに話すのがこの所の習慣だ。
尽が洗面所で手洗いを済ませてリビングへ戻ってくると、食卓の上にはフキの煮物、タケノコご飯、アスパラガスの肉巻き、シジミの味噌汁が並べられていた。
全て、今が旬の食材たちだ。
「天莉は本当、料理が上手だね。――キミと結婚できる俺は最高に幸せ者だ」
思ったままを口にして眼鏡越し、向かいへ座る天莉にふっと柔らかい笑みを向けた尽に、天莉が物凄く恥ずかしそうに視線を揺らせた。
「な、何かそういうの、なかなか慣れらんなくて、くすぐったいな……」
元カレだった横野博視は、もう何年もずっと、天莉に感謝の気持ちを伝えることはなかったらしい。
そればかりか、天莉からポツポツと語られた話を繋ぎ合わせていく中で、天莉が博視から作るもの作るもの全部ケチをつけられてばかりだったことも知っている尽だ。
「ねぇ天莉。俺はこれからもずっと……キミにちゃんとそういう言葉を伝えていくつもりだ。天莉も少しずつで構わないから。それが当たり前なんだと思えるようになってくれると嬉しい」
食事中に行儀が悪いことだとは承知している。
だけど尽は椅子から立ち上がると、身を乗り出すようにして食卓越し。自分の方を驚いたように見つめる天莉の柔らかい頬を撫でずにはいられなかった。
だって――。
「あ、あれ? 私……何で……?」
こちらを見詰める天莉が、二重瞼の大きな瞳から静かにスーッと一筋涙を落としたから。
「しょ、食事中に急に泣いちゃうとか……私、恥ずかしいね」
尽の手にそっと小さな手を添えて瞳を揺らせた天莉に、「大丈夫だ。俺しか見ていないから」と微笑んで見せた尽だったのだけれど。
立ち上がった尽の足に当然の顔をしてまとわりついていたオレオがタイミングよく「ニャー」と鳴いて――。
天莉が「見てたの、尽くんだけじゃなかったね」と言って、瞳を濡らしたまま幸せそうに笑った。
尽はそんな天莉を見て、心の底から彼女のことを幸せにしてやりたい、と思った。
***
「そっか……。あの……尽くん。休むことになったみんなは、どうなっちゃうのかな……」
天莉の涙が引いてから。
再度椅子に腰かけて食事を再開した尽は、足をよじ登ってきたオレオをひざの上に乗せたまま、天莉に今日会社であった出来事をかいつまんで話した。
「皆、刑事処罰は免れないだろうね」
基本的に天莉は優しい。
というか優しすぎて危ういところさえあるくらいだ。
尽の言葉に案の定、「そっか……」と少し悲しそうに眉根を寄せるから。
「自分のせいで、なんて思わないことだ」
尽はそう付け加えずにはいられなかった。
「……」
尽の言葉を天莉が否定しないことからも、彼女が今回の騒動に関して少なからず負い目を感じているのを痛感させられた尽だ。
「忘れてはいけないよ、天莉。彼らの被害者はキミだけじゃない。そもそもアスマモル薬品も不利益を被ってるし、天莉が今回の件に何ら巻き込まれていなかったとしても、いずれ皆そうなる運命だったんだ」
尽だって、正直天莉を巻き込みたくなんてなかった。
未遂で済んだから良かったようなものの、もしもそうでなかったら。
尽は自分を許せなかったはずだ。
尽が天莉を見初めなければ、彼女に累が及ぶことはなかったとさえ思えるから。
尽は天莉を諫めながら、自分も自然眉間にしわを寄せてしまうのを止められなかった。
「尽くん?」
天莉は自分の痛みには鈍感なくせに、尽のそれには驚くほど敏感だ。
「……尽くんこそ自分を責めてるんじゃない? 私、大丈夫だから。――ね?」
食事をする手を止めると、天莉の手が茶碗を手にしたまま食卓へ置かれた尽の手に触れた。
「尽くんのお父様からもめちゃくちゃ謝られちゃったけど……私、尽くんと婚約出来たこと、微塵も後悔してないから」
そこでふと、少し困ったように眉根を寄せて「き、気後れはしてるけど」と声のトーンを落とした。
そんな天莉に、尽は「それは聞き捨てならないな?」とつぶやいて。
スッと箸を置いて天莉の手をギュッと握ると、「でも、今更離してあげられないから……諦めて?」と天莉を真正面からじっと見つめる。
天莉は真剣な尽の様子に息を呑んで。
「本当に……私でいいの?」
ややして、不安そうにそう問いかけてきた。
その質問に、尽がすぐさま「他の誰でもない。俺は天莉じゃなきゃダメなんだよ?」と答えたのは言うまでもない。
***
親睦会のあったあの日。
直樹が手配してくれたロイヤルスイートルームで尽とともに濃密な一夜を明かした天莉は、翌日尽に連れられて、アスマモル薬品が経営している企業立の『明日葉総合病院』へ連れて行かれた。
ドレスのまま動かないといけないかと思った天莉だったけれど、その辺はさすがと言うべきか。
ルームサービスで朝食を済ませて一息ついたころ、尽の呼び出しで部屋を訪った直樹が、尽の替えのスーツだけでなく天莉の着替えも用意して来てくれた。
カーキ色のマキシ丈ワンピースと、白のボレロカーディガンは、先日尽と一緒に行った店から取り寄せたのだろうか。
カジュアル系だけどドレスと同じブランドのもので、言うまでもなくサイズもぴったりで。
直樹はそれだけではなく、天莉がフロントのクロークに預けていたスプリングコートや荷物も回収してくれていた。
ホテルから病院までの移動は、いつも尽を乗せている高級車ではなく、普通にタクシーを呼んでくれたことにも心底ホッとさせられた天莉だ。
名前に〝アスマモル〟を冠していなかったので知らなったけれど、そう言えば天莉が勤める『株式会社ミライ』の健康診断でも、明日葉総合病院を指定されていたな、と思って。
実は天莉が知らないだけで、他にもアスマモルグループ傘下の何かがあるのかも知れない。
尽は天莉の疑問を察したのか、「もしかしてアスマモルの系列、他にもまだ何かあるかも、とかと思ってる? この病院とミライの他にはドラッグストアくらいしかないから安心して?」とククッと笑った。
「まぁ、不動産は沢山所有してるけどね」
そう付け加えて笑った顔が、まるで困った身内の話をするみたいに見えた天莉は、尽は『アスマモル薬品』の人間なのだと改めて実感させられて。
尽が元々はアスマモル薬品の社員だったことを知った後で、天莉は彼自身から開発研究部所長をしていたことも聞いていたから。
(所長さんって……会社の内部事情にも詳しいものなのかな?)
ずっと平社員できた天莉にはその辺りが良くわからないけれど、〝らしい〟という言い方をしなかった尽に、そんな風に思って。
「そっか……。私、親会社のことなのにアスマモル薬品のこと、何にも知らなかったんだなって……ちょっと恥ずかしくなっちゃった」
ポツンとつぶやいたら「普通はそんなもんだよ」と眼鏡越しに優しく微笑まれた。
***
病院では入院するわけではないのにホテルの一室かと思えるような個室に通されてしまった天莉だ。
とても肌触りの良い検査着に着替えさせられ、心地よいスプリングのきいた豪奢なベッドに寝かされた天莉は、オロオロとした表情で尽を見上げた。
「あ、あのっ、……尽くん……?」
別にどこもしんどいところはない。
なのに何故寝そべらなければならないんだろう。
そんな、天莉の戸惑いに揺れる瞳に、
「結構沢山検査項目があるからね。疲れてしまわないよう横になれる部屋を確保してもらったんだ」
尽が至極当然と言った調子で返すから。
天莉はソワソワと落ち着かない。
「い、椅子があって座れるなら別にそんな……。私、もう全然しんどくないし……平気だよ?」
尽のお陰で、薬の副作用はすっかり抜けている。
一晩中、尽に散々愛されて高められた身体は気怠さを覚えないのか?と問われればそんなことはないし、声だって少し掠れてしまっているのを自覚している。
だけど自分の意志でしっかり動けるし、話すのにだって不自由はない。
なのに――。