「と、言うことなのです。兄様……私、髭モジャと、駆け落ちすることになっちゃって!!!都のおばちゃん達には、責められるし、あーーーん!!兄様!!」
言うが早いか、上野は、わんわん泣いた。
常春《つねはる》が、染め殿脇の髭モジャ一家の住まいへ戻ると、妹の姿があった。
無事だったかと、ホッとしつつ、荷受け場で起こった話を聞き、言葉が出なかった。
よくぞ、まあ、それだけ、琵琶湖一団とやり合い、何事も起こらなかったものだと、感心しつつ、そして、紗奈《さな》が無事であったのだと、痛感しつつ、ついでに、妙な事に巻き込まれたものだと、笑いを隠せないでいる。
「あー!兄様!!笑い事では!」
「ええ、そうですよ。常春様。その、髭モジャの、連れ合いをやっているのは、私なのですから」
「あっ!橘様!この度は、妹が、ご迷惑をおかけして、よりにもよって、髭モジャ殿と、駆け落ち騒動を起こしてしまい、申し訳ございません」
常春は、渦中の髭モジャの妻である橘に、詫びを入れた。恐らくは、暫くの間、都大路では、この話題で盛り上る。橘にも、矛先が向かうだろう。
「これ、紗奈、お前も、橘様に詫びなさい。理由はどうあれ、巻き込んでしまったのだから」
「まあまあ、構いませんよ。髭モジャの一人や二人、あの最中を、よく、何事もなく納められたと、もう、私も、冷や汗ものでした」
橘が、笑いながら、言った。
「あの、そんなに、凄かったのですか?」
「ええ、あの若者は、何者かしら?それは、それは、腹が座ってて……」
「ほい!おいらです!女房さん!」
その、あの若者こと、琵琶法師に噛みついた若者が、戸口に立っていた。
「いやー、ほんと、これじゃ、賊に押入れたら、一溜りもねぇや。隙だらけだ。で、やっと、守りに来れた!ただ、総出じゃーねーけど。あっちは、あっちで、守り固めておかねーと、琵琶法師が、どう出てくるかわかんねーから、ほどほどの人数で、すんません!」
あれから暫く後、琵琶法師の元へ、確かに、荷が、船で運ばれて来た。
荷下ろしが、概ね済んだ気配を見計らって、髭モジャ、新《あらた》含め、幾人かの男達と、屋敷にやって来たのだと、若者は、言った。
「で、俺は、女房さん、と、紗奈を守れって言われた。八原《やはら》って、いうんだ。よろしく!」
名を名乗ると、若者は、人懐っこい笑顔を見せる。
「で、予定通り、牛は放ったぜ。けど、屋敷の下っぱ、ほとんど、いやしねえー、どうゆうこと?女房さん?」
八原の報告に、橘は、眉を潜める。
「まあ、やはり、今夜は、逃げておいた方が良い、何かが、起こるというわけですね。これは、牛では、御屋敷周りまで、守れないわ」
「牛?ですか?」
何故、牛なのかと、常春は橘に、問うた。
「ええ、牛が、逃げ出したことにして……さすれば、野次馬も集まるでしょう?」
なるべく、正面切っての対決は、避けたいと、牛車《くるま》の牛が、逃げ出す珍事を起こして、都大路の物好き達を集める策略に出たのだと、橘は、言う。
「いやー!女房さんって、すげーよなあー、兄ちゃん!」
八原が、常春の背を勢い良くドンと叩いた。ゲホっと、常春は咳き込むと、兄ちゃん……、ですか……と、独りごちつつも、橘達の動きに感心するばかりだった。
「でも、大通りだけしか無理でしょう。裏に回られたら、いえ、どこからか、火種を放りこまれたら……」
人だかりが出来ていたら、賊も押し入る事は出来ないが、それを用意できるのは、言うように、表通り止まりだろう。そして、火種を裏通りから屋敷内へ放り込み、混乱を起こせば、容易に潜り込める。
「よーし、じゃ、いっそのこと、火の方も先に起こしておくか?!」
「お、おい!八原とやら、そんな、無茶苦茶な!」
全く、御屋敷をなんだと思っているのかと、常春は、八原を咎めるが、
「いいでしょう!やりましょう!」
何か、思い付いたのか、橘がやる気を見せた。
「とりあえずは、知らせないと!お前様!!!」
そして、橘は、叫ぶ。
しかし──。
いくら待っても、あるべきはずの、髭モジャからの返事はなかった。