テラーノベル
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夕暮れどき、祖母の家の仏間はいつもより暗く見えた。
畳の匂いに混じって、線香の甘い煙がゆらゆらと漂っている。部屋の奥には、黒光りする大きな仏壇が鎮座していた。金箔の剥がれた扉、細かい彫刻、奥に並ぶ位牌。子どものころから何度も見てきたはずなのに、その日はなぜか目を合わせてはいけないもののように思えた。
祖母が亡くなって、四十九日も過ぎた。遺影の中の祖母はやさしく笑っている。けれど、家の中の空気はどこか重く、沈んでいた。
「夜は仏壇を開けっぱなしにしちゃいけないよ」
そう言っていたのは祖母だった。
理由を聞くと、いつも曖昧に笑うだけだった。
その夜、私は一人で祖母の家に泊まることになった。片付けが終わらず、翌日も作業を続けるためだ。時計が十一時を回ったころ、不意に気づいた。
――仏壇の扉が、開いている。
確かに閉めたはずだった。金具もきちんとかけた。気のせいかもしれない。そう思いながら、私は仏間に足を踏み入れた。
畳が軋む。
仏壇の中は闇に沈み、位牌の輪郭だけがぼんやり浮かんでいる。その奥から、かすかな音が聞こえた。
……コト、コト。
木を叩くような、爪でひっかくような。
私は喉を鳴らした。視線を落とすと、位牌の一つが、わずかに揺れている。風はない。窓は閉まっている。
――コト、コト。
今度ははっきり聞こえた。
音は、仏壇の「奥」からしている。
位牌のさらに奥、黒い板の向こう側。そんな場所に空間があるはずがないのに、そこから何かが叩いている。
「……おばあちゃん?」
呼んだ瞬間、音が止んだ。
代わりに、ゆっくりと、仏壇の奥の闇が濃くなった気がした。いや、違う。闇がこちらへ近づいている。
私は後ずさった。
ガタリ。
背後で襖が閉まる音がした。振り返ると、開けていたはずの襖がぴたりと閉じている。部屋の出口が消えた。
心臓がうるさい。
そのとき、仏壇の中で、何かが動いた。
位牌が、ひとつ、またひとつと倒れていく。カタン、カタン、と乾いた音を立てて。
奥から、白いものがにじみ出た。
それは手だった。
指が五本、位牌を押しのけながら、ゆっくりと外へ伸びてくる。細く、しわだらけで、見覚えのある手。
祖母の手だ。
「……寒い」
声が聞こえた。
仏壇の奥から、確かに祖母の声がした。
「寒いよ……扉を閉めないで……」
私は凍りついた。閉めるな、と言っているのに、祖母は生前「夜は開けっぱなしにするな」と言っていた。どちらが本当なのか。
手はさらに伸び、私の足首をつかんだ。
氷のように冷たい。
引きずり込まれる。
仏壇の中は暗いはずなのに、引き寄せられるほどに奥行きが広がっていく。畳のはずの床が、いつのまにか土に変わっている。湿った匂い。重たい空気。
そこは、家の中ではなかった。
無数の位牌が、墓標のように突き立っている。見渡す限り、闇と位牌。ひとつひとつに、私の知っている名前が刻まれている。祖父、曾祖母、見知らぬ親戚、そして――
私の名前。
新しい木の匂いがした。
背後で、祖母の声が笑った。
「順番だからね」
振り向くと、祖母が立っていた。遺影と同じ穏やかな笑み。けれど目の奥は真っ黒で、底がない。
「この家の仏壇はね、あの世とこの世の境目なの」
祖母の体が、煙のように揺らぐ。
「誰かが外にいるためには、誰かが中にいないといけないのよ」
意味を理解した瞬間、足元の土が崩れた。
私は必死に祖母の手を振りほどこうとした。だが、その手は優しく、強かった。
「大丈夫。すぐ慣れるから」
最後に見えたのは、仏壇の前に立つ「私」の姿だった。
無表情で、ゆっくりと仏壇の扉を閉める。
カチリ、と金具がかかる音。
翌朝、親戚が家を訪れたとき、仏間には何も変わった様子はなかった。
整然と並ぶ位牌。
穏やかに笑う祖母の遺影。
そして、昨日までなかったはずの、小さな位牌がひとつ。
そこには、新しい文字でこう刻まれていた。
――まだ、開けないで。
By主
誰かテーマ決めて〜😭
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