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『もう近くだから、この辺で大丈夫』
雅人の方を見ることなく、強張った瞳で数年ぶりに再会した優奈は言った。
逃げるように車を出て、小さく頭を下げ走り去る背中が角を曲がり見えなくなった頃。
緊張の為だろうか。
凝り固まった身体から、ようやく力が抜ける。
(……嘘だろ、まさか)
大きく息を吸い込んで、そして吐き出す。
運転席のシートに深くもたれ掛かかり、低い車体の天井を仰いでみても、事実として甘い残り香が漂う車内。
雅人は、両手で額を押さえ込み前髪を掻き上げた。
(優奈に、会ってしまった)
誤魔化すことなど出来ない、締め付けられるような胸の痛み。
優奈に触れた手を包み込むよう握りしめて、すぐ隣にいてくれた事実に目眩を起こしそうになる。
(……会いたかったのか、俺は、この期に及んで)
愛しさが、募っては、軋む心臓がその熱を奪い取る。
実感しては、冷えていく。
――目の前で崩れていく家庭をどう思う?
――目の前で病んでいく心を、どんな目で眺めている?
雅人は過去の自分に問いかけた。
雅人の父は大手ゼネコンの設計部に所属した後、アート系事務所である高遠一級建築設計事務所を設立した一級建築士だ。
才能は確かであの男が手がけるデザインは、奇抜だ最先端だ、などと謳われいくつものデザイン賞を受賞し、賛否あれどすぐにその名は知れ渡ることとなった。
住宅のみならず、デザイン重視の有名私立高校の建て替えや劇場など多くのクライアントを抱えたが、それを母体とし組織系に広げることもなく自由に活躍をした。
しかし、自由と言えば聞こえがいいが雅人から言わせればどこまでも身勝手な男で。
外で女を作る、酒に溺れる、家庭をかえりみない。そんな男の一番の被害者は、母。
雅人の母は、早くに両親を亡くし、父以外に頼る場所がない人だった。
母が父に向けた感情がどれ程のものだったのかは、わからない。
わからないが、雅人を想い己を殺す人生を選択したことは確かだ。
まだ幼い頃、夜中に泣きながら誰かと電話をしているのを聞いたことがある。
『別れられないわ。だって私一人の力じゃ今以上の暮らしをさせてあげられない』
母の選択した人生。
だが、冷え切った家庭の土台など無いに等しく、崩れていくことなど容易かった。
事務所近くに父が購入していたマンションとは別に、雅人の教育の為と言い高校入学と同時、他の土地に家を建てたのだが。
そこに、父はほとんど立ち寄らなかった。
心の荒んだ母と雅人との生活。
結婚とは何か、家庭とは何か。不幸になるためのそれに意味はあるのか。
大切な母親の心を蝕む自分に存在価値はあるのか。
この世に自分の価値を見出せずにいた、そんな頃だった。
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