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「心配するな。私も愚かではない。」
罠を案じる副官へ、フラミンは静かに説明した。
「すでにゲミヌスとは連絡を取ってある。」
「我らは無理に仕掛ける必要はない。」
「退路を塞ぐように追い立て、圧力をかけ続ければよい。」
「ここは奴らにとって敵地だ。だが我らにとっては庭も同然。」
「神出鬼没という評判に惑わされるな。」
「あの毒の湿地帯を越えて、兵が無傷で済むはずがない。」
「奴らはもう限界だ。」
「勝利は目前にある。」
湖畔の向かい側の敵陣の明かりをみた
先頭にはフラミン自らが立った。
トラシム湖畔へ差しかかったその時――。
「敵です!」
「最後尾の荷駄隊を発見しました!」
「追いついたか。」
フラミンの口元が緩む。
バルカ軍もこちらへ気づいたのだろう。
荷駄隊は速度を上げ、湖畔沿いの街道を逃げ始めた。
「突撃ぃ!」
「荷駄を奪う必要はない!」
「破壊して追い立てろ!」
フラミンは、ここで致命的な過ちを犯していた。
この地がグラン本国であるがゆえに、
軍の隊形が平時の国内行軍と変わらなかったのである。
斥候は少なく、兵は街道に沿って長く伸び、各部隊の間隔も開いていた。
フラミンは、ここが自国であることを疑わなかった。
だが、気づいていなかった。
この土地は、すでにバルカの庭だった。
グランの国土でありながら、そこは敵地と化していた。
逃げる荷駄隊を追い、グラン軍の隊列はさらに前後へ伸びていく。
やがて、先頭を進むフラミンの眼前に――。
整然と陣形を組み、街道を塞ぐバルカ軍が姿を現した。
戦争の天才バルカには、誰にも真似のできない才能があった。
地形を一目見れば、戦場が見える。
兵をどこへ伏せ、敵をどこへ誘い込み、どこで勝負を決めるか。
それを瞬時に描くことができた。
彼が選んだトラシム湖畔北岸は、明け方の深い霧に包まれていた。
すべては、彼の思い描いた戦場となった。
舞台は整った
最初の一撃だった。
山中から一斉に襲いかかった伏兵により、フラミン軍前衛の騎兵隊は壊滅する。
総司令フラミンも、混乱の渦中で命を落とした。
深い霧に包まれた湖畔では、何が起きているのか誰にも分からない。
後方ではヌミダス騎兵が退路を断ち、左手の山中からは伏兵が次々と襲いかかる。
グラン軍は逃げ場を失い、湖へ湖へと押し込まれていった。
重い鎧をまとった重装歩兵は、水へ落ちると二度と浮かび上がることはなかった。
それでも約六千の兵は必死に前方を突破し、生き延びようと走る。
「前だ!」
「敵は前だけだ!」
兵たちは歓声を上げ、街道の先へ駆け出した。
だが、その行く手には――。
整然と陣形を敷いたマハル軍が待ち構えていた。
マハルは迫り来る兵の群れを眺め、苦笑する。
「本当に来たか。」
「兄貴の読みは外れねえな。」
静かに右手を振り下ろす。
「──かかれ。」
待ち受けていた兵たちが一斉に前へ躍り出た。
生き残った六千の兵は、最後の逃げ道さえ断たれた。
最後の一人が倒れた。
マハルが剣を払い血を落とすと、一騎の騎馬が霧を切り裂いて駆けてくる。
先頭を走るのは、バルカだった。
「終わったか。」
「終わった。」
「行くぞ。」
「……行くぞって、どこへ?」
「いいから来い。」
そう言い残し、バルカは馬首を返す。
マハルも苦笑しながら後を追った。
やがて続々とヌミダス騎兵が合流し、その数は瞬く間に膨れ上がる。
「兄貴……まさか。」
「そのまさかだ。」
霧を抜けた先に、一軍の姿が見えた。
東方へ配置されていたゲミヌス軍である。
フラミン軍と挟撃するため、この地へ急行していた。
だが――。
彼らはまだ知らない。
フラミン軍が、すでに壊滅したことを。
「突っ込めぇ!」
バルカはためらうことなく騎兵を率いて突撃した。
突然現れた敵軍に、ゲミヌスは対応する間もなかった。
陣形を整える暇もなく騎兵の突撃を受け、
その混乱の中でゲミヌスは討ち取られる。
指揮官を失ったグラン軍は総崩れとなり、多くの兵が武器を捨てて捕虜となった。
トラシム湖畔での三時間――。
それは、グラン軍にとって惨劇としか呼びようのない三時間だった。
フラミン軍は壊滅。
さらに、救援へ向かっていたゲミヌス率いる精鋭騎兵四千も失われた。
こうして王都へ至る街道を守る軍は消え去った。
バルカの前を阻むものは、もはや何もなかった。
「どなたか、ルシウスを知りませんか。頬に大きな傷があるのですが……。」
「ゲノウ村のガイウスをご存じの方はおられませんか。」
王都の門には、大勢の女性たちが集まっていた。
帰還する兵の中から、夫を、息子を、兄弟を探しているのだ。
だが、誰も首を横に振る。
総司令フラミンの姿はなかった。
あれほど大軍だった兵士たちも、帰ってきたのはほんのわずかだった。
王都には、敗戦だけが戻ってきた。
王都市民へ敗戦を告げる役目を、誰も引き受けようとはしなかった。
ライナーが進み出ようとした、その時だった。
「私が参ります。」
一人の元老院議員が静かに歩み出る。
小太りで、どこにでもいそうな冴えない男だった。
門前に集まった市民を見渡し、ただ一言だけ告げる。
「グラン軍は、大敗を喫した。」
それだけ言うと、男は振り返ることなく戻ってきた。
言葉を失う市民たち。
ライナーは、その背を見つめながら隣のマエクスへ尋ねた。
「彼は?」
「ファービーです。」
「以前、一度お会いになっております。」
「……そうか。」
ライナーは静かに目を閉じる。
そして、アグリから届いていた一通の手紙を思い返した。
コメント
1件
あー、これめっちゃ熱いわ…!バルカの「地形を一目見れば戦場が見える」って設定、もうそれだけで脳が痺れる。フラミンの「自国だから大丈夫」って油断が、逆にバルカの庭になってたっていう皮肉が効きすぎてる。 霧の中での壊滅、逃げ道を断たれて湖へ追い込まれる重装歩兵の描写が生々しくて、読んでて息が詰まったわ。しかも終わったと思ったらゲミヌス軍をそのまま突撃って…バルカ、容赦なさすぎて好き。 そして最後の、帰らぬ人を探す女性たちのシーン。戦場の華やかさの裏にある現実を、静かに突きつけてくるのが沁みる。続き、めっちゃ気になる🔥