テラーノベル
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若井は、なんだここ、と胸の奥で呟きながら玄関に立ち尽くしていた。靴を脱げばいいだけなのに、
足が動かない。
床が冷たいせいじゃない。
部屋が狭いからでもない。
「……俺、塾あるから先帰るね」
気づいたら、そう言っていた。
少し早口だったかもしれない。
元貴は振り向いて、
いつもの軽い調子で、
「りょーかい!」
とだけ返す。
その声を聞いて、
若井はほっとしたような、
でも同時に胸がざわつくような感覚を覚えた。
「あ、じゃ……」
それ以上何も言わず、
若井はドアを閉めた。
ガチャ、という音が、
やけに大きく響く。
⸻
外に出た瞬間、
息が詰まっていたことに気づく。
「……はぁ」
無意識に、深く息を吐いた。
(なんだよ、あの空気)
歩き出しても、
頭の中から消えない。
玄関の冷たさ。
生活感の薄さ。
涼ちゃんの「散らかっててごめんね」という声。
――散らかってなかった。
むしろ、
“人が生きてる感じ”がなかった。
元貴は、
あのまま普通に部屋に入っただろう。
ベッドに座って、
軽く話して、
「大丈夫?」なんて言って。
でも俺は、
靴を脱ぐところで止まった。
怖かったんだ。
優しい先輩じゃない涼ちゃんを、
知ってしまいそうで。
信号待ちで立ち止まる。
赤。
ポケットの中で、
スマホがやけに重い。
(……部活休み取った、って)
あれを言われたときの、
涼ちゃんの声。
「ありがとお…」
あの声は、
“助かった”じゃない。
“これ以上、踏み込まないで”
っていう声だった。
若井は、
拳を軽く握る。
もうドアは閉めた。
引き返さなかった。
でも――
見なかったことには、できない。
(先輩の秘密、か)
知る資格があるのかは、
わからない。
ただ一つ、確かなのは。
今日見たものを、
俺はもう忘れられない。
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