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疲れていたので、一番アクセスが良い場所を初日の宿に選んだ。
「……ここは、日本ですか?」
思わず呟いた私を責めないでほしい。
いきなり現れた竹林とその先にある古風で優美な佇まいの日本建築。
広々とした庭付きの高級旅館を想像してもらえると一番近いと思う。
『御方の設計だからのぅ』
「え?」
『他にもいろいろとあるけど、ここは特に人気が高いわよ。えーと、竹取物語がイメージなんだって、言っていた気がする』
『じゃな』
はっ! と背後を振り返れば、延々と竹林が生い茂っており、異国情緒満載だった風景が、日本の山中的な感じになっていた。
「魔法か、何か……なの?」
『我らも詳しくは知らぬなぁ。幻惑魔法の一種と聞いておる』
『この魔法のお蔭で、一時期貴族たちが自分の屋敷を無理矢理豪華にするのが流行したよねー』
『維持が難しく、すぐ廃れたがな』
人気がないので二人とも人の姿になっている。
それぞれが好みの衣装を纏っていて、眼福だ。
静かに竹の揺れる音に夫を思いつつ、宿へと足を踏み入れる。
「ようこそ、おいでくださいました。御方様の奥方様、彩絲様、雪華様」
鉢植えのしだれ桜が両側に配置してある広々とした玄関をくぐれば、女将と思しき人物筆頭に着物姿の従業員がずらりと並んで出迎えてくれる。
「御方から連絡でもあったのじゃろ」
何時の間にか二人は人型へと変じていたようだ。
若干引き気味の私の背中を、彩絲がそうと分からぬように押す。
何度か夫と訪れた経験もある高級旅館だったが、隣に夫がいるからこそ、高級感に気圧されずにすんだのだ。
だが今夫はここにいない。
夫が設計したという旅館でなかったら、もっと居た堪れない感を強く抱いたかもしれなかった。
「当宿をお選びいただきまして、誠にありがとうございます。どうぞ心行くまでご逗留くださいませ」
女将は着物でも出るところは出ているのが分かる大変羨ましい体型に、どんなに怒り狂っている誰かに遭遇しても、一瞬で我に返らせてしまうような、穏やかな威圧? らしきものを纏っていた。
当然、うっとりするほどの美人だ。
「幻桜庵《げんろうあん》の女将、吸血姫の桜果《おうか》と申します」
音もなく従業員が仕事に戻って行く中で、残った女将が自己紹介をしてくれた。
不思議な威圧は吸血姫特有のものかもしれない。
鬼ではなく、姫、というところが特に。
「お荷物をお預かりしてもよろしいでしょうか?」
「あ。軽いので大丈夫です」
「……バザルケット殿の御手ですね」
「有名なんですか?」
「ほほ。狼の純血は少のうございます。隠し通せるものではございません。ですが、彼女ほどになれば、知る人ぞ知る、という立ち位置を貫けるものでもございます」
妙に納得できる話だった。
きっと彼女もエリスさんと同じで、知る人ぞ知る有名人なのだろう。
「お部屋はこちらでございます。個室露天と茶室がついております。まずはお抹茶を一服いかがでございましょう?」
「まさか、お抹茶がいただけるとは思いませんでした。是非、お願いします」
「あ! 私は抹茶が苦手だから、ギルドに行ってくるよ」
「監視の目は、置いてきたのじゃろうに」
「やー。リアルで見たいし……」
「夕食は一緒に食べようね?」
「勿論! じゃ、行ってくるね!」
すうっと雪華の姿が消えてしまう。
転移のスキルか魔法、どちらだろうか。
「やれやれ忙しない。分身を置いてきたはずなのじゃがなぁ。目を通して、いろいろと思う所があったのやもしれぬ」
「何か、お抹茶苦手っていうのが雪華らしい気がするし、無理して飲むこともないよ。でも、和菓子は好きな気がするけどな」
「好物じゃな。すっかり忘れておるのじゃろう。向こうのやり取りに心を奪われておるのじゃ」
「雪華様の茶菓子はお取り置きしておきましょう」
「お願いします」
木の香りが優しく鼻を擽る長い廊下を延々と歩く。
疲れないのは香りが緊張を解しているのだろうか。
客がそうとは気が付かない程度の回復魔法系をかけているのかもしれない。
「苔と石のバランスが好みだなぁ」
途中に小さな庭があった。
竹の囲いの中、苔むした緑色をした絨毯の上に、人が数人腰掛けられそうな岩と、足置きに良さそうな石が置かれている。
石には軽く水が打たれているようだ。
「御方様御指示の下に当館の庭師が整備したものでございます。庭師も喜びましょう」
「わびさび、じゃったか?」
「そう言われるものかな? 私としては知識もなく、ただただ、いいなぁと思っただけなんだけどね」
「それこそが、真理だと、御方様もおっしゃっておいででした……こちらでございます。夢桜間《ゆめざくらのま》でございます」
曇りガラス戸を引かれると、靴が十足は置けそうな広々とした玄関。
草履と健康サンダル? が置かれている。
板の間の上には、スリッパ。
足裏の当たる部分はイグサで気持ち良さそうだ。
靴箱の上には、桜の投げ入れが置かれている。
ガラスの花瓶に生けられているのが新鮮だった。
スリッパを履いて二三歩歩くと襖。
スリッパの意味があるんだろうか? と思ってしまったが、形式美のようなものなのかもしれないと考え直して納得した。
「海、ですか?」
広々とした和室の向こう。
夕日や朝日をゆったりと堪能できるように置かれたソファの背後には一面の窓ガラス。
そして海。
「山の部屋もございますが、海の景色、特に夜景を好まれると御方様よりお言葉をいただきましたので」
「おーしゃーんびゅー! 凄く素敵です! ……夫と来たかったですね」
「是非ともいらしてくださいませ。今回は女性ばかりの時間を堪能いただければと思います」
彩絲は女将よりも先に茶室へ入って、抹茶を待ち構えているようだ。
同じように私も茶室へ入ると、目を惹く鮮やかに赤い椿の一輪挿しが迎えてくれる。
桜と椿では季節感がそぐわないが、そこがまた異世界らしく好感度が益々上がった。
お点前は典雅極まりなかった。
年経た者にしか出せない優美を極めた所作に見惚れていると、声がかけられる。
「お菓子をどうぞ」
「お菓子を頂戴いたします」
隣の彩絲に会釈して茶菓子を取り分ける。
やわらかい茶色に、濃い桃色をした桜の花びらと金粉が散らされた皿の上、載っていた菓子は主菓子と干菓子の二種類だった。
桜形の干菓子と練り切り。
練り切りの中身は珍しい鶯餡。
花弁の桃色とおしべめしべの黄色、そして中身は緑と切り目がとても華やかだ。
味も良い。
それぞれの餡の味が自己主張しすぎずに上手く纏まっていた。
干菓子のほろっと崩れる和三盆は、かなり高級な代物だろう。
彩絲も眦を柔らかく下げて堪能しているようだ。
菓子を食べきるタイミングで茶が差し出される。
「お先に」
彩絲へと頭を軽く下げてから。
「お点前頂戴いたします」
茶碗を手に取った。
菓子が載っていた大皿、取り皿と同じ柄だ。
泡立ちが優しく唇に触れ、喉越しも良くするっと飲み切れてしまいそうなのを、自分の知る作法で飲み切った。
私が淹れれば時々できてしまう、抹茶の残り玉の欠片も見当たらない。
隣の彩絲が飲み切るのを見計らって、ふぅと息を吐き出す。
久しぶりの本格的なお点前に、緊張していたらしい。
「お客様をリラックスさせねばなりませんのに、申し訳ございません」
「久しぶりでしたので、柄にもなく緊張してしまいました。とても美味しいお茶と菓子でした。ありがとうございます」
「雪華も喜ぶじゃろうなぁ。勿論妾も十分堪能させてもらった」
「勿体ないお言葉にございます……それでは、夕食の膳を用意いたしますので、ごゆっくりとおくつろぎくださいませ」
着物の裾捌きすら品の良い女将は、微かな衣擦れの音を残して部屋を出て行った。
「おお。露天風呂じゃぞ? 夕食前に入ったらどうじゃ?」
「オーシャーンビューな個室露天とか、豪華すぎる! あ。しかも総檜だ。うーん良い香り! 彩絲も一緒にどう?」
「では、有り難くいただくとしよう……蜘蛛姿でも問題ないか?」
「勿論! 広々設計だから余裕で入れるでしょ」
身体にタオルを巻こうか考えて、夫もいないことだし……とすっぽんぽんのまま外へ出てかけ湯をする。
少し温めだったので、じっくりと浸かれそうだ。
「ふわー気持ちいぃ……」
縁に頭を預けて思い切り伸びをする。
疲れがじわじわと染み出していくようだった。
「温泉とか異世界じゃないみたいだよねぇ。食事とお風呂とトイレ事情で困る異世界作品を読みまくったから警戒してたんだけどねー」
『御方が、主に不便をかけるはずもなかろうて』
「そばにいてくれないのは寂しいけどね。それでもいないと有り難さを実感できるから、たまにはいいのかもしれないなぁ……」
目を閉じれば笑顔の夫。
のぼせないようにするんですよー、と理想の母親のように声を掛けられて、思わず笑う。
「ただいまー! 帰ったよ!」
すぱーんと、風呂へ繋がるガラス戸を開けた雪華が、素早く服を脱ぎながら風呂へ入ってくる。
お湯に入った途端、掌サイズの蛇になって、私の所へすいすいと泳いできた。
『いい感じに纏めてたわ。あいつ、優秀だもんね』
「知り合いだったの?」
『親しくはないけどね。むしろ彩絲の方が関わりあるわよ?』
『数度やり合っただけじゃ』
「そうなんだ……ま! 雪華が大丈夫っていうのなら、大丈夫でしょ」
『あとで報告じゃぞ?』
『分かってるってば、貴女には映像も渡すわよ』
彩絲の上に寝転がった雪華が、蛇ってリラックスするとこんなだらけた格好になるんだ! と思わず感心する格好で寛ぎ始めれば、彩絲は仕方ないなぁ、と時々小さな波を立てて雪華が湯冷めしないように気配りをしている。
守護獣同士の仲が良いのは、私としても好ましい。
何より、巨大蜘蛛と白蛇の仲良さげな様子なんて、二次世界でしか見られないのだ。
堪能するしかないだろう。
『そういえば、御方はこの宿の設計で永世建築家の称号を得たのじゃったな』
「永世建築家?」
『名誉職みたいな感じかな? 結構な援助金も出たはず』
『本人がおられたら、稼働率に応じて報奨金の支払いがなされたはずじゃが……主が申請すれば、受け取ることも可能じゃぞ?』
申請すれば、夫と縁を繋ごうとする有象無象に付き纏われるに決まってる。
お金に不自由は全くしていないのだから、申請は当然しない。
「あの人の功績をかすめ取るような真似はしたくないから申請はしない方向で。この件以外でも。基本的に相手から尋ねられない限り、私と夫の関係は秘密でお願い」
『承知した』
『わかったよー……うー、そろそろのぼせそうかも』
「私もリラックスできたかな。身体と髪の毛を洗ってから、出るね」
『背中を流したいのじゃが?』
「恥ずかしいから、御遠慮申し上げます」
『言うと思った!』
特に不快な思いはしていないらしい。
二人が出て行ってからゆっくりと風呂からあがった私は、鬱陶しくない柑橘系の香りがする石鹸とシャンプー&リンスで丁寧に全身を洗い尽くした。