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「あの時は、ごめん」
勇太が、額がテーブルにぶつかりそうなほど深く、頭を下げた。
「本当に、ごめん」
あの時、とは、四年前のこと。
「うん」
他に言葉がなかった。
あの時、私は確かに傷ついたし、四年経った今も忘れられない。あれから、何人かと付き合ったけれど、誰に対しても好意以上の感情は持てなかった。だから、私の身体のことでセフレ扱いされても、振られても、あの時以上に苦しいことはなかった。
またか、とか、やっぱり、と思うだけ。
それに、龍也がいてくれた。
「あの後すぐに謝りたかったんだけど、連絡つかなかったし、俺も……直接会いに行く勇気がなくて……」
「うん」
「けど、あきらのことは、ずっと忘れてなかった」
『さっさと結婚したくせに?』
もちろん、言わなかった。思っただけ。さすがに、今更、恨みがましいことを言うほど、私は小さい女じゃない。
正直、もっと落ち着かないかと思っていた。
けれど、混雑する店内は騒がしく、狭いテーブルとテーブルの間を通る人たちのコートの裾で飲み物がこぼれないかと気にしていたら、勇太と向き合うのも平気だった。
落ち着いた雰囲気のカフェじゃ、こんな風に冷静でいられなかったかもしれない。
「もう、忘れていいから」
「え?」
「謝罪は受け入れました。だから、もう忘れていい」
勇太は右手の人差し指と中指を擦り合わせた。
変わっていない。
勇太は昔から、困った時や悩んだ時、そういう仕草をする。そんな時、私は甘いコーヒーを淹れて、彼の隣に寄り添った。一息ついた勇太はぽつりぽつりと話し出す。
そんな頃が、懐かしく思えた。けれど、あの頃に戻りたいとは思わないし、勇太を前に未練のような胸の痛みもない。
私はカップを持って、立ちあがった。
「もう、出よう」
昔は、勇太のカップも片付けていた。けれど、現在の私にそんなことをする義理はない。職場の男性相手ならそれくらいしてあげるけれど、勇太にはそうしてはいけないと思う。
「勇太の連絡先も、もう消すから」
店を出て、言った。
「勇太も、消して」
「あきら……」
勇太が、謝罪のためだけに会いたがったんじゃないのはわかっている。彼の私を見る目でわかる。
勇太は気が弱いところがある。少なくとも、私と付き合っていた頃はそうだった。
だから、勇太が落ち込んで『どうせ俺なんか……』と呟くたびに、私は彼を励まし、抱き締めた。
そういう時の、目。
夫婦生活が上手くいっていないのかもしれない、仕事で嫌なことがあったのかもしれない、奥さんは子育てに忙しいから、慰めて励ましてくれないのかもしれない。
だとしても、今の私に勇太を気遣う義理はない。
私は身体の向きを変えた。
「じゃ、ね」と言って、勇太に背を向ける。
「あきら!」
「なに?」
「お前、今、男いるのか?」
「……どうして?」
私は振り返らなかった。
だから、背後から手首を掴まれて歩き出された時、振りほどけなかった。
「勇太!?」
痛いほど強く掴まれ、大通りから住宅街に曲がったところで、ようやく解放された。
「なんなの?」
「髪、切ったんだな」
「え?」
街灯と街灯の間、暗がりで勇太の表情がよく見えない。
「結構前に、ね」
「長い髪、好きだった」
知ってる。だから、勇太と別れて、真っ先に髪を切った。未練を断ち切るように。
「やり直せないか? 俺たち」
「なに、言ってるの?」
驚くほど、動揺しなかった。
勇太が、そう言うんじゃないかと、予感はあった。ただ、謝罪したいだけで、あんなにしつこく連絡してこない。
「離婚の予定でもあるの?」
「え? いや、そうじゃ――」
「私に愛人になれって?」
「あきら」
勇太が気まずそうに、肩を落とした。
勇太が好きだった。
結婚したいと思ってした。
気が弱くても、時々面倒なほど自己評価が低くて蹲ってしまっても、子供みたいにくだらないことで拗ねたり駄々をこねても、私が支えていこうと思っていた。
その事実は記憶にあるのに、こうして彼を目の前にしても、当時の感情が少しも思い出せない。
それどころか、イライラする。
「長い付き合いだったからお互いをよく知ってるし、生理がないから好きな時にセックスできる。当然、妊娠の心配もない。こんな都合のいい愛人、いないわよね」
暗くても、勇太が驚いて目を剥いたのがわかった。
「そんなこと――」
「そう思ったから! あの時も嫌がる私に中出ししたのよね」
四年前、まだ痛む傷跡を押さえながら、私は勇太に会いに行った。手術したことを伝えると、心配してくれた。
『子供……産めなくなっちゃった』
涙を流す私の肩を抱いて、勇太は言った。
『あきらがいれば、いい』
嬉しかった。
子供を産めない私ごと受け入れてくれたんだと思った。
けれど、それは大間違いだった。
優しく抱き締めてくれて、キスをくれて、シャツのボタンを二つ外された時、私は彼を拒絶した。術後でそんな気分でも、体調でもなかった。それ以上に、こんな状況でセックスしようと思う勇太を嫌悪した。
それでも勇太はシたがって、私はシャツのボタンが全て外された時、彼の頬を叩いた。
『ふざけないで!』
勇太は怒りに目をギラギラさせて、私を組み敷いた。
『ふざけてんのはお前だろ! 入院してたことも知らされないなんて、婚約者だなんて言えるかよ! それに、何週間もシてなくて溜まってんだよ』
彼から逃れようと身を捩り、脚をバタバタさせたけれど、両腕をがっちり掴まれて、両足の間には勇太がいて、足掻きようがなかった。
『折角、やりたい放題になったのに、拒むとか有り得ねー』
その言葉を聞いた時、抵抗する気も失せた。
私は屈辱と痛みに耐えた。ひたすらに。
『やっぱ、生、最高だな』
こんな男を愛してたなんて――!
悔しかった。
情けなかった。
四年経った今、勇太を前にして思うのは、あの時の苦痛と嫌悪だけ。
「あの後、入院してたの」
「え?」
「感染症で再入院してたの。だから、連絡が取れなかったの」
「俺の……せいで……?」
言わなくてもいいことだ。
今更、勇太を傷つける必要はない。
わかっているけれど、言いたかった。傷つけたかった。私の半分でいい。苦しんでほしかった。
最低だ――。
「勇太」
沈黙を破った男性の声に、私と勇太は声がした方に顔を向けた。
コツコツという靴音と共に、人影が浮かぶ。男性が私たちから八メートルほど離れた街灯の下に立った時、誰だかわかった。私ではない。勇太が。
「兄さ――」
男性は短い髪を手で後ろに撫でながら、険しい表情を見せた。眼鏡の奥の鋭い眼光が、勇太を射抜く。
年齢は三十代後半から四十歳。黒いスーツに、白いワイシャツ、ネクタイはしていなかったがボタンは一番上まで留まっている。
「こんなところで何をしている?」
声は勇太より低く、落ち着いている。
男性は街灯の下を抜け、更に私たちに近づいた。
私は数回、挨拶をしただけ。
人混みの中ですれ違っても気が付かないだろう。
「兄さんこそ、どうしてこんなところに――」
勇太は見るからに動揺し、一歩後退った。
「Yカメラから出てきたら、お前が見えた」
確か、名前は勇伸。勇太の十歳年上の兄。
お兄さんの視線が私と交わる。私は軽く会釈した。
「人気のない場所で女性と二人になるのは、妻帯者としてどうなんだ」
「兄さんには関係――」