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「……ゼロ?」
理咲の思考が停止した。
昨日まで数千万単位の数字が躍っていた場所に、冷酷な「0」が鎮座している。
暴落。
そして意図的に引き伸ばされたメンテナンス。
出口を塞がれたまま、彼女の資産は市場という名の巨大なシュレッダーにかけられ、跡形もなく消え去った。
「う……うあああああ!! 嘘よ、嘘よ嘘よ嘘よ!!」
理咲はスマホを床に叩きつけた。ガンと鈍い音がして、液晶に大きな亀裂が入る。肩で息をする。金曜日までは金持ちだったのに、資産もぐんぐん増えていたのに、なぜたった2日跨いだだけで、潤沢にあった資産が0円になる?
こんなのおかしい!!
ぶんぶんと髪をふり乱し、スマートフォンを連打する。だが、先ほどまでアプリを見ていたプライベート用スマートフォンは、彼女自身が床に叩きつけたために壊れてしまった。もう液晶が白く光ることは無いだろう。真っ黒のままだ。
どうするどうするどうする!?
理咲はガリガリと髪を掻きむしった。う”ああぁぁ、と小さく呟きながら、血走った眼を左右に振る。
かなりの無理をして金まで借りた。会社の株を担保に入れた。
どうなってしまうのだろう。どうすればもとに戻すことができる?
コンコン
ノックの音に全身を震わせ、まるでからくり人形が首を回すようなくらい、滑稽でギギギギ、と音が出そうな様子で扉の方を見た。
無言を貫いていると、扉は勝手に開いた。開いた扉の向こうに立っていたのは、真っ青な顔をした事務員と、見知らぬスーツ姿の男たちが数人確認できた。
「……お嬢様。……『債権者』を名乗る方々がお見えです」
「債権者?」
聞き覚えのない単語に理咲は混同したが、すぐに我に返って男を睨みつけた。
「勝手に入ってこないで!」
理咲は掠れた声で叫んだ。だが、先頭に立つ銀縁眼鏡の男は、表情ひとつ変えずに一通の書面を差し出した。
「太田理咲さん。我々は神原新次郎氏より、貴女に対する『貸付債権』を譲り受けた者です。これがその通知書、および、貴女が自筆で署名された『公正証書作成嘱託書』の写しです」
神原新次郎の名を聞き、理咲の頭が真っ白になる。
サインの文字は、確かに木曜日の夜、貸し切りレストランで電子署名したものだ。見覚えがあった。
天魔が仕掛けたのは裁判不要の即時処刑。通常、借金を返せない相手から資産を取り上げるには、裁判を起こして何ヶ月も待たなければならない。だが、理咲がレストランでの高揚感の中、内容も見ずにサインした書類には、恐ろしい文言が含まれていた。
【強制執行認諾条項】――「支払いが滞った場合、直ちに裁判なしで強制執行(差し押さえ)を受けても異議ありません」という悪魔の特約――
天魔はこの委任状を使って、週末に公正証書を完成させていた。
そして債権回収のプロに託したのだ。
「貴女が担保に入れたのは、この事務所の土地、建物、そして『OTAデザイン』の全株式です。証拠金維持率がゼロになった瞬間、これらはすべて我々のものになる契約になっています」
理咲の視界がグニュリと歪んだ。
そんなそんなそんな――……
どうしたらいいの? この悪い人たちを追い返すには、どうしたら……。
「そ、そんなの無効よ! 私は信じない! さっさと出て行って!!」
「なにをおっしゃいますか。出て行くのはあなたの方ですよ。今ではこの建物も、その椅子も、あなたが今着ている服の代金さえ、法的にはもう我々の管理下にあるのですから」
銀縁眼鏡の男が、憐れむような、それでいて冷酷な笑みを浮かべた。その背後で、作業着の男たちが無造作に部屋の備品に「差押」の赤い札を貼り付け始める。ペタペタと、OTAが切り売りされていく音が響く。
「やめて……やめてよ!!」
理咲は作業員の男に掴みかかろうとしたが、男はそれをさっと華麗にかわし、代わりに一枚のタブレットを突きつけた。そこに映し出されていたのは、見慣れた社長室の椅子に座り、顔から血の気を引かせた父だった。
寝耳に水の話を聞かされ、娘の失態を告げられ、彼は今、どんな気持ちなのだろうか――
「お気の毒に。今にも倒れそうですね」
「お父さんになにをしたの!」
「別になにもしておりません。今日からここは我々のものです、と、退去勧告をしたまでです」
理咲の喉から、ヒュッという短い呼吸が漏れた。
「さあ、一時間以内に退去を。……ああ、そのバッグも置いていってください。会社の経費で購入されたものですから。あと、あなたにお客様がいらっしゃっていますよ。入ってもらいましょう」
男が合図をすると、血走った目をした取引先の男たちが部屋になだれ込んできた。
「逃がさねえぞ、理咲!!」
「俺の金を返せ!!」
「どうしてくれるんだッ!!」
怒号が階下に響き渡る。逃げ場はない。金もない。味方もいない。
完全に――詰んだ。
数日前まで、彼女の周りで揉み手をし、投資の女神と崇めていた男たちの顔は、今や空腹のピラニアそのものだ。脂ぎった顔を近づけ、逃げ場を塞ぐように取り囲む。
「待って、違うの! 私も被害者なのよ! 新次郎さんが……あの男がやったことなの!!」
理咲は必死に言い訳をまき散らすが、男たちの怒号は止まらない。
「知るかよ! お前が『絶対儲かる』って言ったんだろ!」
「俺の老後資金を返せ、この詐欺女!!」
「脱げよ! その高い服も靴も、全部俺たちの金だろうが!!」
一人の男が理咲の肩を乱暴に掴む。その瞬間、彼女の中で何かがパチンと弾けた。恐怖が限界点を超え、脳が防衛本能として狂気を選択したのだ。
「あぁあぁあぁぁぁ――っ!!」
理咲の喉から、人間とは思えないような潰れた悲鳴が漏れた。
これからどんな債権地獄が待っているのだろうか――
コメント
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読み終えました……第9話、凄まじかったです。最初の「0」の衝撃から、債権者たちの怒号、退去命令まで、すべてが息つく間もなく流れ込んできました。特に、高揚感の中ですらすらとサインした書類が「強制執行認諾条項」付きの罠だったという流れは、ぞっとするようでいて、非常に丁寧に伏線が張られていたんだなと感じます。理咲の完全な孤立と、狂気に逃げるしかなかったラストの描写が心に刺さりました……