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理咲の堕ちる様を見て、私は頷いた。あなたの行く末はもう地獄しかないのよ。その前に、もうひと働きしてね。
私は彼女にメッセージを送った。神原新次郎に騙された投資家を装ったアカウントを使って。
内容は、かつて新次郎の「特別枠」に選ばれて破産させられた、名もなき個人投資家。
理咲はSNSに神原新次郎のことを探すつぶやきを、すごい勢いで拡散させている。当然新次郎のHPはもう閉じたし、名刺の住所も嘘だから、探しようがなくてこういった手段を取っているのだろう。想定のシナリオどおり。
だからそこを突く!
《神原新次郎の愛人の住所を突き止めました。新次郎は、大体夜の19時半くらいに彼女のマンションへ訪れるみたいです。住所を送ります》
位置情報は、私と涼二が暮らすこのマンションを指定した。
絶望の底で掴んだ情報。希望を与えられた理咲は、これに飛びつくしかないのよ。
※
午後七時すぎ。涼二がいつも通り帰ってきた。あと30分後、ここは修羅場になる。
怒鳴り込まれてキッチンがめちゃくちゃになることも想定し、外食を提案しようと思って今日の夕飯の用意はやめておいた。鍋の中身を勢い付けてぶっかけられたら、大けがをしてしまうからね。
「ただいま、沙耶」
「おかえりなさい。今日もお仕事ご苦労様」
「実はさ、沙耶に報告があるんだ」
「なあに?」
「その……辞表出してきた!」
へえ……。もう辞表したんだ。思いのほか早かったわね。
「そうなんだ。職場には、すんなり受け入れてもらったの? 優秀な涼二に辞められたら、困るんじゃない?」
「ああ。よく頑張ってくれたから、引継ぎが終わり次第辞めてもいいって。あと2週間で仕事おさめだ」
「そっか、おめでとう涼二! これで脚本家目指せるね」
私は内心笑ってしまった。
優秀な人材だったら、辞めるのにもっと時間かかるものなのに。
たった2週間で辞めさせてもらえるなんて……。よっぽど無能なのね。
「お祝いしなきゃね。でも、今日はなにも用意していないの。ごめんなさい」
「いいんだ。なにか食べに行こうよ」
「いいの? 嬉しい!」
大げさに喜んでおいた。
ありがたいわ。こっちから提案しようと思っていたところだから、ちょうどいい。
「沙耶、背中を押してくれてありがとう。君の支えがあるから、僕は本気で書けるよ」
「期待してるわ」
「なにが食べたい? 沙耶のためにご馳走するよ」
「あら、逆じゃない。今日は涼二のお祝いなのに」
幸せな夫婦のあまりに平穏な日常に見えるわね。
ほんとうは腹の内は違うのに。
目で時刻を追った。時間は――ちょうど、19時半!
それを見計らったように玄関のインターフォンが狂ったような音を立てて鳴り響く。
――ピンポーン!
――ピンポンピンポンピンポン!!
――ドンドンドンドン!!
すぐに対応しないから、ドアを激しく叩く音がする。理咲だわ。思った通り、彼女がやってきた。
「な、なんだ!? いったい誰だ……」
涼二が立ち上がる。私はわざとらしく肩をすくめ、怯えたふりをして彼の背後に隠れた。ドアフォンを見ようと思ったけれど、ガムテープで塞がれていて、外の様子はなにも見えなかった。
「僕が見てくるよ」
理咲は置き去りにしたくせに、今日は勇敢なのね。
「一緒に行きましょう。なにかあったら、すぐ通報するから」
「そうしよう」
そろりそろりと玄関へ向かう。
「警察に連絡しておきましょう」
私は素早く110番を押して、警察を呼んだ。危ないから出ないように言われたので、はい、わかりました、とだけ言って電話を切った。
涼二の洋服の袖を引っ張って、できるだけ確認しましょう、と告げた。
『開けなさい! そこにいるのはわかっているのよ!! 男が中に入っていったでしょう!!!!』
聞き馴染みのある女の声に、涼二は一瞬で血の気が引いていった。
そしてそれは確信に変わる。涼二がドアスコープを確認し、「ひっ」と息を飲んだ。恐らく鬼の形相をしている理咲が拳を振り上げているであろう姿が見えたはずだ。
「女性だわ。誰かしら……」
「沙耶、開けるな!」
「でも、知らない人だし、家を間違えているのよ。話せばわかるわ」
私は涼二の静止を無視して扉を開けた。そこに立っていたのはいつも自信に満ちて綺麗に着飾っていた女性ではなく、髪を振り乱し、復讐の鬼と化した理咲だった。彼女は扉のノブを大きくつかみ、足を一歩玄関に踏み込ませてきた。
「新次郎!! 神原新次郎はどこ!?」
「神原……? あの、どちらさまですか? ここは神原という家ではありません……きゃっ」
髪の毛を強い力で引っ張られた。この際、痛みは仕方ない。我慢よ!
「あんたが愛人だってことはわかってるのよ! 出しなさいよ!! どこに隠れてるの! 出てこいクソ男――ッ!!」
理咲の瞳は完全に濁り、血走っている。
彼女は今、目の前にいる地味な主婦(わたし)が、あの冷酷なブルーの瞳の英子と同一人物であることなど、微塵も気づいていない。
「あいつがここへ帰ってくるって聞いたのよ! 私の人生を返せ――!! 」
理咲だと気が付いているのに、私が髪を引っ張られてひどい目に遭っているから助けるしかなくて、怯えた様子で涼二が理咲との間に入った。
「やめろ! 妻を離せ!!」
「……え? りょうたん……」
理咲の般若顔が、一瞬で崩れた。目的の人物ではないとわかったからだ。私の髪を引っ張っていた手が緩んだすきに、夫の後ろへ逃げ込んだ。
「涼二……この人、誰? 知り合いなの?」
「あ、いや……彼女は……その、仕事の関係のひとで……」
理咲は混乱し、涼二と私を交互に見て、さらに発狂した。 「りょうたんが、なんでここにいるの! 新次郎は!? その女が新次郎の愛人なんでしょ! こっちへ渡しなさい!!」
「愛人ってなんだよ。しかも、新次郎って誰だよ。家を間違えたんだろっ。出て行ってくれ!」
「はあ? 間違えるわけないでしょ!! りょうたんこそ、こんなところでなにしてんの? その女、神原新次郎って投資家の愛人だよ!」
私は怯えてみせた。今日はとくに普段着でお洒落もしていないから、英子とは似ても似つかない服装にしてある。彼女が気づくとは思えないけれど、こんなに至近距離だったらドキドキしちゃうな。
さーて。どうやっておさめようかなぁ……。夫は役に立ちそうもないし。
自分で考えるしかないよね。
コメント
1件
うわあ……第37話、めちゃくちゃ面白かったです! 沙耶の完全に掌の上で転がす感じ、ゾクゾクしました。 辞表を出した涼二を「無能だから即日OKもらえたんだ」って内心で嗤うところ、沙耶の冷徹な計算と長年の怨みが滲んでて震えました。 理咲が鬼の形相で乗り込んでくるシーンの緊張感もすごくて、ラストの「自分で考えるしかないよね」の台詞、もう沙耶が完全に主導権握ってるのが最高でした。 続きが待ちきれないです……!