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口ずさみながら、ソラスは村を後にした。背中に誰かの視線が残っている気がしたが、振り返りはしなかった。振り返ったところで、そこにあるのは白い息を吐く人々と、雪に埋もれかけた屋根と、冷たい沈黙だけであると、彼女は知っていたからである。
村を抜けて針葉樹の森へ入る頃には、風の態度がはっきりと変わっていた。頬を刺す冷たさが、先程までとは違う。雪はまだ穏やかに降っているが、空の奥に、何か重たいものが溜まっているのが分かる。
「早く帰らなきゃ」
自分に言い聞かせるようなか細い独り言は、白い息となってすぐに消えた。台車の車輪が雪に取られて時折止まる。ソラスは細い腕に力を込め、身体ごと前に傾けて、また歩き出す。森は静かだった。鳥の声も獣の気配もなく、ただ、風が枝を揺らす音だけが一定の間隔で耳に触れる。
不意に、ソラスは足を止めた。
ーー見られている。
理由は分からない。だが、確信だけが少女の全身を押さえつけていた。ゆっくりと視線を落とす。
ぽつん、と黒猫がいた。
雪の上に、まるで最初からそこに在ったかのように行儀よく座り、黄色い目でソラスを見上げている。いつものように鳴きもせず、じっとして尾も揺らさない。
「どうしたの。先に帰ったんじゃなかったの」
問いかけても、黒猫は動かない。その代わり、ほんの一瞬だけソラスの足元――正確には、台車の下――へと視線を移した。その何気ない仕草に、ソラスは判然としない胸騒ぎを覚えるが、言葉にするより前に、黒猫はくるりと身を翻して雪の中へ溶けるように消えてしまった。
「……変なの」
彼女は小さく首を傾げると、再び歩き出した。その足取りは、わずかに早くなっていた。
やがて森を抜けると、視界に尖塔が現れた。黒煉瓦の胴体は、降り始めた雪の向こうに、いつもと変わらぬ姿で立っている。
けれど。
「あれ?」
ソラスは思わず立ち止まった。窓に、灯りがある。出掛ける時、暖炉の火は落としてきたはずだった。ユイスも今日は村へは出ないと言っていた。なのに、二階の窓から、微かな橙色が滲んでいる。
「……ユイス?」
名を呼んでも、普段の陽気な返事はない。だが、塔の扉に近づくにつれ、別の音が聞こえてきた。ごろごろ、と喉の奥で低く鳴るような音。黒猫の、あの音だ。
扉を開けると、暖かい空気が流れ出した。暖炉には確かに火が入っている。そして、肘掛け椅子の傍――いつもソラスが座る場所の足元ーーに、黒猫が丸くなっていた。
「帰ってたのね」
黒猫は目を開けない。だが、その喉は、確かに鳴っている。ソラスは濡れた外套を脱ぎ、台車を壁際に寄せ、布袋を下ろした。一連の動作をしている間、彼女はずっと、胸の奥のざわめきを感じていた。
まるで、何かをーー 間違えた順番でーー持ち帰ってしまったような感覚。
「おかえり」
不意に声がして、ソラスは振り向いた。螺旋階段の途中に、ユイスが立っている。相変わらず、どこか影の薄い立ち方で。
「吹雪、来そうだったでしょ」
「……うん。もうすぐ」
ソラスは微笑もうとして、上手くいかなかった。
「ねえ、ユイス」
「なに?」
彼女は一瞬、言葉を探した。逡巡の後、結局口をついたのは、どうでもいいはずの問いだった。
「私、今日……何か、忘れてきた気がするの」
ユイスは少しだけ目を細めた。それが笑みなのか、困惑なのか、ソラスには分からない。
「気のせいだよ」
即答だった。
「君は、ちゃんと帰ってきた」
彼の言い方が、なぜだか胸に引っかかった。
その夜、吹雪は塔を包み込んだ。風が壁を叩き、雪が窓を白く塞ぐ。ソラスは寝台に横になりながら、黒猫の鳴き声を聞いていた。ごろごろ、という音の合間に、時折別の響きが混じる。言葉になりそこねた、何か。彼女はそれを聞き分ける前に、深い眠りに落ちた。