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第二十一話:万魔胎動、色欲の包囲網
隠れ宿「朧月館」を包む夜気は、不自然なほどに重く、そして静まり返っていた。
だが、その静寂は安らぎではない。僕の額にある三色の角は、かつてないほど激しく、そして警告を鳴らすように明滅している。これは「敵」が近くにいるのではない。隠り世の各地に点在する、天を衝くほどの強大な妖源が、一斉にこの宿へ、正確には僕の「精髄」へと照準を合わせたことによる共鳴だった。
事の始まりは、あのお客様――神龍・琥珀との邂逅だった。
神性を宿した龍を「もてなし」、あまつさえ王の精髄をもってその核を塗り替えたという事実は、隠り世という閉ざされた箱庭に投じられた、あまりにも巨大な「変革の種火」となった。数千年の間、淀みきっていた力関係が、僕という一人の人間の存在によって根底から崩れ去ったのだ。
「……あ、あるじ様……っ」
不意に、右腕に柔らかな、けれど必死な重みが加わった。一花だ。いつもは甲斐甲斐しく働く彼女が、今は青ざめた顔で僕の腕に顔を埋め、小刻みに震えている。
「外から……怖い視線が、たくさん届いて……。一花の身体、バラバラになっちゃいそうで……。お願いです、どこにも行かないでください……」
「旦那様……旦那様ぁ、行っちゃだめにゃ……ッ!」
さらに左腰のあたりには、お凛が涙目で必死にしがみついてきた。二股の尾は股の間に力なく巻き込まれ、鋭いはずの爪も今は震えを抑えるために僕の衣を掴むので精一杯のようだ。
「外が……外が怖すぎるにゃ……。隠り世の支配者たちが、みんなあんたを『王の種』として鑑定してるにゃ。一歩でも離れたら、お凛たちじゃもう二度と助けられない場所に連れてかれちゃうにゃ……!」
二人の少女妖怪が、僕という唯一の安息地に縋り付く。彼女たちの野生の直感は正しかった。今、この宿の周囲には、隠り世中の「支配者」たちが一斉に視線を注ぎ、僕という獲物を分け合おうと舌なめずりをしている。
今、隠り世の六つの領域にて、伝説の女たちが動いた。
宿から遥か東、海が空を呑み込む「鏡面海域」。その波間に浮かぶガラスの宮殿、九尾の「瑞稀」が、水盤に映る僕の姿を愛おしげになぞっていた。
「……素晴らしいわ。神龍の魂を書き換えるほどの高純度な精、これこそ私が数千年前から求めていた『進化』の鍵。玉藻、あなたが飼い慣らすには、その男はあまりに眩しすぎるわ」
北の果て、時間が停止した「沈黙の氷穴」。そこにある青白い氷の玉座に座す、雪女の女王「霰」が、冷徹な視線を宿に送る。
「私の身体は、世界の熱を奪い続ける呪い。けれど、その男の精髄ならば、私の芯を一度だけ焼き切ってくれるかしら……。ええ、誰にも渡さない。その熱、私にすべて捧げなさい」
天を衝く巨木が街をなす「翠嵐の摩天楼」。その最上階で、天狗の長「紅羽」が八手団扇を畳み、静かに立ち上がる。
彼女は、数多の修羅場を越えた者だけが持つ、洗練された大人の落ち着きを纏っている。
「あら……。噂通り、とても良い香りね。あんな狭い宿に閉じこもっているなんて、もったいないわ。ねえ、少しこちらへ来ない? お姉さんが、空の高さと、その先にある本当の快楽を教えてあげるわよ」
地の底、数万の蓮が光を放つ「忘却の霊池」。そこで微睡んでいたキョンシーの「雲華」が、僕の存在に反応し、その瞳に「生命」の火を灯した。
「あるじ様……。あなたの脈動が、土を伝って私の腐りかけた心臓に響くの。ねえ、私を抱きしめて。その熱い種で、私をもう一度『女』として繋ぎ止めて……」
西の荒野、死者の魂が砂嵐となって舞う「鉄錆の処刑場」。巨大な斧槍を大地に突き立てていた「伊吹」が、牙を見せて不敵に笑う。
「ハッ! 最高の獲物じゃない。いいか野郎共、あの男を奪いに行くぞ。その三色の角を掴んで、アタシの足元に跪かせてやる。一滴残らずその精を飲み干して、アタシの血肉にしてやるよ。異論は認めねえ」
さらに、どこからか響く重厚な弦の音と共に、冥界の境界線「虚無の門」に現れたのは、冥界の長・「狂骨」。
「生者の命脈、その頂点。三色の雫は、黄泉の渇きを癒やす唯一の美酒となるだろう」
「……瑞稀、紅羽、果ては伊吹までか……! どいつもこいつも、妾の顔に泥を塗りおって……!」
玉藻が、九つの尾を怒髪天を衝く勢いで逆立て、宿の中庭に立ちふさがっていた。彼女の放つ黄金の妖気が、各地から届く「欲望の視線」という名の重圧を、辛うじて弾き返している。
しかし、彼女の額には汗が滲んでいた。いかに伝説の九尾といえども、これらすべての「極」を同時に相手取れば、結界を保つことすら至難の業だ。
「あるじよ。……すまぬ。妾の力をもってしても、この『万魔の包囲』を永劫に防ぐことは不可能じゃ。……お前様の精髄が放つ香りは、各地の支配者たちを一斉に『発情期』へと追い込んでしまった」
玉藻が、悔しげに、しかしどこか艶かしい期待を込めた瞳で僕を振り返った。
「選ぶがよい、あるじ。今宵、誰の牙を受け入れ、誰の深淵をその三色の精で満たす? もはや、この宿で平穏を貪る時間は終わった。妾に代わって、次々と乗り込んでくる大妖怪どもを……お前様のその三色の光で、ねじ伏せてみせよ」
僕の三色の角が、臨界点を超えて輝き、宿全体を真昼のように照らし出した。
両腕に縋り付いて震える一花とお凛の温もりを感じながら、僕は前を見据える。逃れられぬ運命。いや、これはあるじとして、隠り世の頂点に君臨するための、通過儀礼なのかもしれない。
「……いいだろう。僕を求めて順番を待っているなら、その期待、全力で応えてやる。だが、僕を飲み干すのがどれほど過酷か、その身に刻ませてやるぞ!」
僕が覚悟を決めて言い放つと、大妖怪たちの顔に、一斉に淫らな、そして残酷な「捕食者」の笑みが浮かんだ。
三色の霊光は、神々をも誘う蜜であると同時に、隠り世を焼き尽くす情愛の火種でもあった。
嵐の前の、あまりにも静かな夜。
月はかつてないほどに不気味に赤く、宿の玄関には、目に見えぬ「順番待ち」の列が出来上がっていた。
最初の「お客様」は、誰になるのか。
隠れ宿「朧月館」は、今、隠り世で最も熱く、最も淫らな「戦場」へと変貌した。