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岩崎が休みなく奏でるチェロの音に、観客達はすっかり取り込まれ、息をするのも忘れたかのよう身をのりだし聞き入っている。
一曲演奏が終わるたび、大きな歓声と拍手が沸き起こり、続いて、岩崎の教え子──、女学生や、ご近所の奥さん達の黄色い声援が響いた。
桟敷席で、一人残され、自分の使命というものを改めて痛感している月子には、それらは、不甲斐なさに追い討ちをかけるかの様に感じられた。
せっかくの岩崎の夢でもある独演会なのに、自分は俯いて座っていることしか出来ないと、月子は追い詰められている。
ちらりと見やった貴賓席では、岩崎男爵夫婦が、皆と微笑み合いながら会話を交わしていた。
芳子は、華やかな空気を醸し出し、立派に役目を果たしている。
月子は、自分にはこなせない役割を目の当たりにし、耳に流れ込む岩崎チェロの音を楽しむことも出来なかった。
どこか、卑屈になりつつ、一人、俯き、曲が終わる度小さく拍手をしている。
正直、そんな自分が嫌になったが、では、芳子のように社交的に振る舞うということも月子には並大抵の事ではない。
どうすれば良いのだろうと、今と今後の事が混じり合い、月子は複雑な思いを抱きながら、岩崎の演奏にどうにか集中しようと試みた。
演奏は、どんどん続き、止めどなく音が流れ、劇場は、興奮仕切っている。
そんな中に、月子一人取り残された状態で、当然岩崎の演奏を楽しむことは無理だった。
そして、舞台袖では──。
目立たないように、裏へ下がった戸田が一息ついていた。
自分のピアノ演奏が、ひとまず終わったからだ。後は、岩崎一人の独奏、文字通り独演会になる。
「……観客はしっかり取り込んでます。だから大丈夫だとは思いますが……岩崎先生がもつのかなぁ」
演奏は、予定の半分を越えていた。あと数曲岩崎一人で演奏し、再び戸田が合流する。そして、中村のバイオリンも加わり華を添える流れになっている。
その後は、アンコール。もちろん、観客が望めばの話だ。
「まあ、音の乱れも無いし、大丈夫じゃないのか?」
中村が呑気に言うが、目はしっかりと岩崎の弓の動きを見定めている。
「あ、あの、先生が息切れされたら、戸田さん伴奏でお咲を出すってのはどうでしょうか?!」
肩を怒らせ、拳を握りしめながら、無駄に緊張している山上が言う。
「お前、お咲を指導したからって、贔屓しすぎだろう?これは、岩崎の独演会だぞ?お咲で締めてどうすんだ」
「で、ですね。こ、これは岩崎先生の演奏会でした!」
山上が、声を裏返しながら中村の指摘に同意した。
「……でも、中村さん。山上さんの言うことも、一理ありますよ、もしもの誤魔化しを考えておかないと……観客の座布団の嵐は避けたいところでしょ?何しろ、貴賓席の面々がすごすぎますからねぇ……」
自分達が、乱入してでも、岩崎を支える事も考えに入れておくべきだと戸田が静かに言い切った。
「戸田さん!おれ、歌います」
山上が、緊迫しつつも、もしもの時に備えようと意見する。
「旦那様の演奏会だよ!だから、だめだよ!」
お咲が、いきなり言い張る。
「だよな、お咲。お前、小さいけど、筋ってもんわかってんだよなぁ」
中村が、ポンとお咲の頭に手を乗せた。
この二人のやり取りに、戸田も山上も、渋い顔をしつつも頷くが……。
「えっ?!まさかの、今さら、ここで、心配事がおこるとわっ?!ちょいと!どういうことなんだい?!今からでも幕間休憩取って、売り子だすぜ!!」
二代目が、緊迫した状況に慌てふためく。
皆、とにかく無事に演奏会が終わってくれれば良いという思いだった。
そもそも、休みなく二十曲とアンコール曲を演奏するという事態、無茶なのだ。
が、記者二人組は目を爛々と輝かせ、
「無茶と言われた演奏を、無事に終えたその感動的瞬間、写真に収めますよっ!」
沼田は張り切り、
「あー、女学生が、きゃー!岩崎先生!と叫んでくれれば!」
野口が合いの手を入れる。
記者二人組は、自分の記事の展開しか考えていないようで、岩崎が演奏を継続できるかの心配は皆無だった。
「大丈夫だよ。旦那様は、大きいし、ご飯もおかわりするから」
お咲が大きく頷きながら言う。
「……なんか、わかんねぇけど、確かに岩崎は、月子ちゃんと一緒に暮らし始めて良く食べるようになった。ってことは、月子ちゃんがいればってことか?!」
お咲の一言に、中村が食い付く。
「んじゃあ!月子ちゃん、呼んでくるわっ!!」
二代目が、駆け出しそうになるのを戸田が引き留める。
「ちょっと、待ってください。月子さんを、ここに呼んでどうなるんですか?話ずれてますよ!」
「てぇーか、月子ちゃん、どこにいるんだろう?男爵夫婦と一緒じゃないぜ?」
二代目が、そっと顔を覗かせ貴賓席を見ている。
「とにかく!岩崎先生を信じましょう!先生も、かれこれ練習されたんですから、勝算ありと踏んでのご決断なのでしょう……」
「だな、戸田。岩崎のことだ、出来ないことはやらない……けど……」
中村は戸田の意見に同意しつつも、どこか、不安げだった。
皆が、舞台裾で心配している間も、岩崎のチェロの音は伸びやかに流れ、独奏でありながらも圧倒的な迫力を発している。
観客も誰一人として、幕間無しの長丁場に飽きた素振りも見せず、心酔していると言ってもおかしくないほど、魅了されている。
「うん、きっと大丈夫だ。それに、独奏、あと一曲だろ?」
「中村さん!!準備を!私達の出番がやって来ますよ!」
戸田が焦った。
ピアノとバイオリンの出番があと一曲の所に来ている。
「おお!ということは演奏会も終わりが近いと!いやぁー、先生、やってくれましたよ」
「反応もよろしい!」
記者二人組は、ご機嫌だった。岩崎の独演会が無事に修了することよりも、やはり自分達の記事の内容しか考えてない。
そして、ついに、独奏部分は終わりを告げようとしていた。
「中村さん!私、そろそろ行きますから!」
「おう!打ち合わせ通りだな。俺は後から出ていく」
まさかの心配は見事に取り越し苦労だったようで、岩崎は、休み無しで演奏をこなせそうな勢いを見せている。
劇場は、完全に岩崎の音の虜になっていた。貴賓席のお偉方、そして、お忍びで現れた高貴なお方も、満足げに曲が終わる度、惜しみ無く拍手をしている。
岩崎が弓をゆっくりと引き、軽く会釈をした……。
一人で演奏する独奏曲は凡て終わったと伝えたかったのか、岩崎の中では、ここが、一区切りなのか、とにかく、一瞬の間ができた。
瞬時に、ざわつきが起きて、皆は、手元にある演奏表に目を通す。
升席は、あの、あんこ売りが始まるのかと、威勢良く声をかける時を待っている。
とたんに、ピアノが小刻みに、囁くような音を出す。
戸田が着席し、鍵盤に指を滑らせていた。
それを待っていたかのように、岩崎は弓を素早く引く。
早い曲調の音楽が流れだし、ピアノとの二重奏が始まった。
観客は、まだ続きがあると喜び、拍手はなかなか鳴り止まない。そこへ、バイオリンの音が響いて来た。
中村が登場し、ピアノ、バイオリン、そして岩崎のチェロの調べが被さり合って音に奥行きが出る。
重厚だが、軽やか、そして、駆けるような速さに、自然と手拍子が巻き起こり、劇場は一気に華やかになった。