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私達に今最も必要な行動は情報の共有だ。
わからない事があまりに多過ぎる。だがしかし、もう完全に掃除モードに突入している彼はどうにも風呂場の汚れが気になる様だ……。気持ちはわかる。風呂に入る度に一応気になる部分をスポンジで擦ったり、放置して流すだけの洗剤を使ったり、カビ防止の燻煙剤を使用したりもしてはいるが、それでも限界を超えた何かしらが気になるのだろう。でも待って……あまりそういう箇所を気にされると、私のHPがどんどん削れて行くから勘弁して欲しい。
両手で顔を覆って嘆いていると、寿真さんが気遣う様な声で、「プラ桶とかのつけ置き洗いだけ先にしておいてもいいですか?」と訊いてきた。
「……あ、はい」と力無く返す。そして私はとぼとぼとした足取りで彼に背を向け、「……終わったら、主室に来て貰ってもいいですか?」と声を掛けた。
「はい!」と元気に返してくれる。家政夫じゃない人を家政夫だと勘違いして掃除を頼んでしまったと言うのに、何て優しい子なんだ。
すっかりHPはゼロの状態だ。そのせいでポロリと泣きそうになりつつ主室に戻った途端、私は現実に引き戻された。
(……どうすんだよ、この部屋)
物が多くて、悲しい事にベッド以外に座れる場所が無い。だが『ベッドの上でする対話なんて、ひと——』のあたりまで考えてしまった時、私の中に居る『理性』が頬を強くぶん殴ってくれ、変態的思考が停止した。
「ひとまず、座る場所を確保せねば」
力無く呟き、即座に行動を開始する。職場に近く、且つ家賃の安さを重視して選んだので私の部屋はワンルームしかない。なので隣室に全て押し込んでひとまずは誤魔化すという手法を選択する余地が無く、仕方なくクローゼットを開けはしたが、そこには洗濯済の衣類が並んでいるから穢したくない。食べ残しやカップ麺、お弁当の空きトレーなんかは流石に毎度きちんと処理しているので部屋の臭いに問題無いとは思うんだけど、それでも換気はした方が良いだろうと狭いベランダに出られる大きな窓は開けておいた。
そして、捨て損ねていた買い物の紙袋や何となく捨てられずにいた不用品を一旦ゴミ袋に詰め、洗濯物を主室に置きっぱだった洗濯籠にぶち込み、本や雑誌はテキトウに棚の中に突っ込む。雑多な物を部屋の隅に積み上げて何とか真ん中に空間を確保しはしたが、元々ソファーや座椅子、座布団といった類が無いのでどうしようと困っていると、とうとう寿真さんがこの汚部屋に入って来てしまった。
汚い部屋に高身長の美丈夫が居るとか……。もう地獄絵図にしか見えない。だからか、足元に項垂れて床をドンドンと叩きたい気分になった。
「……|伊吹《いぶき》さんの部屋だぁ」
ぽつりと呟く声が優しくって、余計に気持ちが追い詰められていく。どうして常時片付けておかなかったんだ、私!と悔やんでも悔やみきれない。
「えっと、ひとまずそこに腰掛けて貰ってもいいですか?」
辛うじて開ける事に成功したスペースを指差す。彼が持って来た大きな荷物群はひとまず玄関を入ってすぐの場所に置いたままにしておいてもらった。
狭いスペースに二人とも腰掛けたが、高身長の彼が座ると私のスペースが余り無い。かといって私一人だけベッドに座ると『まるで誘——』までいった辺りでまた脳内の発想を『理性』がぶん殴った。……自分のテリトリーにイケメンが居るという稀有な状況に、頭の中がどうも誤作動を起こしてるみたいだ。絶対に母さんが『結婚相手』だなんて言いやがったせいだ。
恨みがましい気持ちを抑えつつ空いている場所に座り、咳払いをして顔を上げる。……だけど近過ぎてちょっと困った。
「先程は失礼しました。色々とその、勘違いをしてしまいまして」
「いえいえ、僕も紛らわしい言い方をしてしまいましたからね、お気になさらず」
笑顔でそう言ってくれ、優しさが身に染みた。
「えっと自己紹介は、必要ですか?」
「いいえ。あ、でも、御本人から改めて聞くというのもまた良い経験ですよね。——やっぱりお願いします」
ふわりと笑われ、口元が引き攣る。……こんな部屋に置いておいていい人じゃない。早く帰ってもらわないと。
頭を下げると彼の胸元に頭突きをかましてしまいそうなので堪えつつ、出来るだけ真顔になりつつ口を開いた。
「えっと、私は『|常盤伊吹《ときわいぶき》』と言います」から始め、寝具メーカーに勤めているくせに寝不足になるレベルで忙しくって部屋がこんなザマである事を言い訳のように、申し訳なさたっぷりに語った。
すると彼の方も自己紹介を始めてくれた。『|福富寿真《ふくとみかずま》』というなんとも縁起の良さそうな御名前で、私の五歳年下の二十三歳、彼女はおらず、現在仕事はしていないが貯金が潤沢にあるので今はそれを投資などで増やしつつ生活費を得て、自己スキルを『花婿修行』として磨いている最中だと教えてくれたが……こんな清楚系なふわふわ男性が独り身とか嘘としか思えなかった。
「えっと、ウチの母とは知り合いなんですか?」
「はい。スーパーで知り合って、そのまま仲良くさせてもらっています」
「ス、スーパーで?」
スーパーで、どんな出会い方をしたら、二十代前半の男性が年配の女性と仲良くなれるのか想像がつかずに困惑していると、「ほら、将を射るならまずは馬からって言うでしょう?なので外堀を埋めておこうかなと思って」とニコニコ顔で寿真さんが言った。
(何を言っているんだ?コイツは……)
そうは思ったが、意味不明過ぎて「はぁ……」としか返せなかった。
「『結婚相手を探している』と千歳さんに話したら、『じゃあウチの娘を貰ってよ』と向こうから言って頂けて、その後は半年程掛けて常盤家の家庭の味を叩き込んで下さいました。現状では掃除洗濯をする時間も無いっぽいとも聞き、なら僕がマスターしておくといいかもと、丁寧に掃除のイロハまで教えてもらい、本当に感謝しかありません」
胸に手を当て、何故か幸せそうに寿真さんが語る。それを聞いた途端私は深々と頭を下げ、両手を太ももに置いて「申し訳ありません、ウチの母が強引で!」と謝罪会見ばりの丁寧さで謝った。
「か、顔をあげて下さい!あの、この体勢は、距離的に、その……」と言われ、頭を下げる時に自然と閉じてしまっていた瞼を開ける。その瞬間、彼の膝が思いっきり目前で、寿真さんの動揺の理由を全て察して慌てて顔を上げた。
「あ、その、あの、ウチの母には適当にちゃんと話しておきますんで、母の戯言は全て無視して下さい。ホントすみません、母の馬鹿話に付き合わせてしまって。今後はそんな事はしない様に言っておきますから」
ぼやきつつ、照れを隠すみたいに額に手を当ててきちんと伝える。話すたびに『アンタ、結婚はいつすんの!』と言っていた昭和脳の母親が、静かになった途端に裏ではこんな事をやらかしていたとか、ホント頭が痛い。
「いえいえ、馬鹿話とかじゃありませんよ?きちんと結婚届を役所で貰って僕の欄は書いて来ましたし、お義父様と千歳さんの署名と捺印もしてありますから。後はもう伊吹さんの——あ、すみません名前で呼んでしまって。『常盤さん』だと、『千歳』さん達も皆さん同じ『常盤』なので、自然と『伊吹さん』呼びに慣れてしまっていて。でも良いですよね?僕らは夫婦になるんですし。あ、でも本人の前でそう呼ぶのはちょっと照れますね、ふふっ」
気恥ずかしそうに自身の後頭部に触れながら『てへへ』風に言われたが、「はい?」と返してしまう。
(……コイツは何を言っているんだ)
初対面だぞ?何で当事者不在のまま『結婚話』が爆走しているんだ。
「あ、僕は専業主夫希望ですけど、大丈夫ですよね?」
いや、それ以前の話ですよね?と思いつつ、「……結婚詐欺かなんかですか?」と冷めた声で訊いた。もしそれ狙いだとしたら私を標的にするのは間違っている。
(だって、泣けるくらいに、貯金なんか殆ど無いからね!)
お金を使う時間も無いが、そもそもこの御時世なのに給料が安いままなのだ。勤続年数や仕事量的にはもっと上げて欲しいけど、日々鬼のように頑張っているのに何故か別の人ばかりが上がっていっている。上司に対しても愛想が良くって可愛くて若い子の給料は上昇し、お局様街道一直線な私はほぼ横這いという理不尽な状況だ。中小企業の悪い部分を煮詰めた様な会社で嫌んなる。
そんな状態の中。全般的に物価が上がり、水道光熱費も高騰。時間が無くて自炊をしないから財布の中身の減りも早く、貯金に回せる余裕がほぼ無いから私を騙してもメリットなんかゼロだ。そもそも彼に渡せる金が無いのだから。
「嫌だなぁ、違いますよ」
(じゃあ『ヒモ希望』か?終わってんな、コイツ)
こんな若い子の言う『貯金がある』って話自体がそもそも胡散臭いっていうのに。だからか心底呆れ、コメントすら出来ずにいると、寿真さんが「ちなみに、こちらが僕の資産状況です」と一枚の紙と通帳をセットで差し出してきた。
「……私が悪用したらどうすんですか」
「伊吹さんにだったら、別に♡」と、自身の両腕を抱き締め、ぞくりと体を震わせながら言われてどん引いた。雰囲気も顔も良いが、コイツは間違いなく変態だ。悪い女に捕まったら骨の髄まで搾り取られだろうに、それでも喜んで稼いでしまいそうな雰囲気である。
「相互監禁生活希望でもあるんで、貯蓄はちゃんとしてありますよ」と言いつつ、彼が通帳を開く。
「ほらね」
「『ほら』って、え?『そう』……『かん』……は?」
聞き間違いだろうか?随分と物騒なワードが聞こえた気がするんだが、寿真さんにそんな雰囲気はまるで無い。何と言ったのかと聞き返すか迷っていると、彼が開いた通帳の最後の欄が視界に入り、私は我が目を疑った。
(桁が、オカシイ)
通帳には『偽造か?』と思う様な額の数字が印字されている。こんなん、子供の『ボクの考えた最強の数字』レベルの貯金額だ。アプリで開けるタイプの口座残高の確認画面だったなら、間違いなく『フェイク』だと決め付けている額である。
二十八年生きてきて、仕事中ですらも見た事の無い額を前に、「……なっ」と反応に困っていると、「こちらの紙に一部を書き出していますが——」から始まり「他には不動産を数棟と、株も少々」だなんて、お見合いで『趣味は、お茶とお花を少々』と言うみたいな奥ゆかしさを持ったノリで言われた。
「えっと……富豪のパトロンを抱えてるとか、ママ活でもしてるんですか?」
それにしたって説明出来ない額だけども。すると「しませんよ?」とスンッとした顔で返されたので事実の様だ。
「この、一番最後の方の入金分は、海外のホテルに併設されているカジノで、ドーンと」と言い、通帳のイカれた数字を彼が指差す。
「一発でギャンブル依存症になりそうな額ですね……」
「『ここまで来たらもっと増やそう!次も賭けないか?』と、店のオーナーに、僕から金を奪い返す気満々に進められましたが、ちゃんと断りました。大きく当たると気持ちいいのはわかりますが、伊吹さんとの監禁結婚生活を考えるだけでギャンブルなんてゴミカスレベルなので」と頬を染め、それを両手で隠しながら語る姿はもはや『乙女』である。
「いやいや、しませんよ?『結婚』なんて」
こちらに視線だけをやり、「——は?」とこぼした彼の表情が怖いレベルで真顔過ぎて、反射的に体が硬直してしまった。