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東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
桐生法律事務所のマホガニーの扉を遥が開けたのは、夜明けまで二時間弱という時刻だった。
ドアを押した瞬間、鼻腔を突いたのは——ダージリンの香りではなかった。安いコンビニのどら焼きの、間の抜けた甘い匂い。それから、缶コーヒーの蓋を開けた時の、薄っぺらいカラメルの香り。その二つが、重厚な室内のアンティーク調の空気と奇妙に同居していた。
遥は扉を閉める前に、一度だけ目を細めた。
「……来てんのか」
「おかえり、黒瀬くん」
声がした方向——チェスターフィールドソファの斜め向かい、来客用の一人掛け椅子に、男が座っていた。
烏丸惣一。
公安部第六特務課。ヨレヨレのトレンチコートは今夜も皺だらけで、黒いネクタイは緩みきっている。寝癖なのか癖毛なのか判然としない髪が、蛍光灯の下でぼんやりと光っている。膝の上には開封済みのどら焼きの袋、手には安売りの缶コーヒー。どこからどう見ても、うだつの上がらない中年サラリーマンがコンビニで一息ついているだけにしか見えない。
しかしその目だけは――へらへらと緩んだ笑顔の奥で、この部屋に入ってきた人間の全てを、すでに三回は値踏みし終えたような光を宿している。
「いやぁ、ちょうど桐生さんとお話ししてたところでね。……遅かったじゃないですか。今夜は」
「別に報告の義務はない」
「そうそう、そうなんですよ」
惣一はどら焼きを一口齧りながら、にこにこと頷いた。
「義務なんてないんです。うちとそちらの間には、ね。ただ、まあ……ご近所付き合いみたいなもんで」
“ご近所付き合い”という言葉の、表面の柔らかさと中身の冷たさの違いを、この場にいる全員が理解していた。公安と遥たちの間にあるのは、決して信頼などではない。互いに利用価値を認め合いながら、互いの腹の底を探り続けている。そういう関係だ。烏丸がこうして深夜に事務所へ現れること自体、”今夜の成果を確認しに来た”以上の意味を持つ。
次いで部屋の奥、バーカウンターに寄りかかるようにして立っていた霧島塔子が、遥に一瞥をくれた。
二十八歳。切れ長の目に絶えず刻まれた眉間の皺、右手には半分ほど残った缶コーヒー、左手には胃薬の錠剤シートをそのまま握っている。スーツは完璧に着こなされているが、その完璧さが逆に、今夜どれだけの量の事後処理をこなしてきたかを物語っていた。
「……頬」
塔子が短く言った。感情的な起伏のない、事務的な指摘だった。
「分かってる。大丈夫だ」
「縫うほどじゃないけど、ガーゼは必要ね。放置したら跡になる」
「別にいい」
「こちらとしては、あなたに余計なハンデを負ってもらっては困る」
遥は返事をしなかった。塔子の言葉の表面は実務的だが、その底にある意図――遥という道具を良好な状態で保ちたいという公安六課の論理――を、彼は理解した上で流した。ソファの奥で銀貨を指に転がしていた慧が、眼鏡の位置を直しながら口を開く。
「遥、座れ。烏丸さんにも聞いてもらうべき話がある」
デスクに戻っていたソフィアが遥の入室に気づいた瞬間、せわしないタイピングの手を止めた。モニターの光の中、彼女の大きな碧眼が遥の頬へと向く。傷の位置と深さを一瞬で計測するような視線。それは法務助手としての精確な観察眼だったが、後に続いた表情の変化は、法律の条文とは何の関係もないものだった。
彼女はデスクの引き出しを開け、救急セットを取り出しながら立ち上がった。その動きに一切の迷いがない。
「黒瀬サン、こちらへ」
「いい、自分でやる」
「傷の角度が見えないでしょう、自分では」
有無を言わさない声だった。十九歳の女性の、しかし一切の隙のない声。遥は一秒だけ間を置いてから、ソファに腰を下ろした。ソフィアは遥の正面に膝をつき、救急セットを手早く開く。消毒液を含ませたガーゼを取り出す手は、震えることなく安定していた――遥の頬を覗き込んだ際、彼女の耳の先端が微かに赤くなっていたことを除けば。
「……少し、沁みます」
告げてから、彼女はガーゼを傷に当てる。遥の眉が僅かに動いた。ソフィアは傷の縁を丁寧に拭いながら、声のトーンを意図的に事務的に保った。
「弾掠りですか」
「ああ」
「避けたんですか」
「当たり前だ」
「……当たり前、ですか」
ソフィアは小さく息を吐いた。呆れとも安堵ともつかない、複雑な色を含んだ吐息だった。彼女は新しいガーゼに替え、傷口を覆うように丁寧に固定しながら、それ以上は何も言わなかった。言葉にしてしまうと、今夜この傷が生まれた瞬間のことを具体的に想像してしまうから。そう遥が気付くほど、彼女の沈黙は雄弁だった。
医療用テープで四辺を押さえ、ソフィアは立ち上がった。
「終わりました」
「……サンキュ」
遥が短く言った。微かに微笑んだソフィアは背を向け、デスクへ戻りながら、誰にも見えない角度で一度だけ目を閉じた。
「さて」
一連の様子を確認した慧が銀貨を止め、ソファに深く身を沈め直す。
「烏丸さん、今夜の報告をしましょう。……どこから話すのが一番喜ばれますか」
「全部ですよ、全部。桐生さんの話はいつも聞き応えがあるんでね」
惣一はどら焼きの袋を膝の脇に置き、缶コーヒーを一口啜った。笑顔は変わらない。しかしその姿勢が、ごくわずかに前傾になった。聞く気になった時の彼の癖だ。
「標的はクロムウェル、東日本方面の実動部隊です。廃工場街を根城にしていた武装グループで、構成員の大半は民間軍事会社崩れ。今夜、主力の七名を処理しました。幹部三名を含めて」
「幹部三名……」
烏丸の目の奥で、一瞬だけ鋭く光が動いた。
「全員?」
「全員」
塔子が缶コーヒーを傾けながら、静かに口を挟む。
「工場に残置されていた爆発物の処理は?」
「信管は無力化済みです。C4が三点、出入口付近と天井梁に。位置の詳細は後ほどデータで」
「……処理班を明朝入れます」
塔子は胃薬のシートから一錠押し出し、缶コーヒーで流し込んだ。その動作があまりにも慣れていて、遥は思わず一瞬だけ彼女を見やった。
「それから」
慧が続ける。指先の銀貨が、再び静かに動き始めた。
「今夜最も重要な収穫は、幹部の一人から引き出した情報です。クロムウェルに今回の仕事を発注した上位依頼主の名前、複数の口座番号と資金移動の記録、暗号化通信サーバーのアクセスキー、そして今後三件分の暗殺依頼のターゲットリスト」
室内の空気が一段重くなった。惣一のへらへらとした笑顔が初めて僅かに止まった――というよりは、固まった。缶コーヒーを持つ手が、ほんの少しだけ静止している。
「……上位依頼主の、名前」
「ええ」
慧は眼鏡の奥で、静かに相手を見た。
「烏丸さんがお顔を知っている方かもしれません。データはすでに精査済みです。必要であれば、今夜お渡しできる」
「……頂きましょう」
烏丸の声から初めて軽さが抜けた。それだけで、この情報の重さが証明された。凪がタブレットを操作し、暗号化したデータパッケージを六課の専用回線へ送信する。烏丸のトレンチコートの内ポケットで、古い型の携帯端末が振動した。
「受け取りました。……いやいや」
惣一は缶コーヒーを一口啜り、また笑顔に戻った。しかしその笑顔の温度は、先程までとは明らかに違う。
「本当に、お宅は仕事が丁寧で助かります。うちの連中じゃ、半年かけても辿り着けなかったかもしれない」
「光栄です」
慧の返答は穏やかだ。しかし”光栄”という言葉の中に、今夜の対価として見合うだけのものを次回以降も期待する、という無言の請求書が挟まっていることを誰もが薄々察していた。
「――それで」
塔子が口を開いた。眉間の皺が、いつもより一本深い。
「今夜の事後処理ですが。工場内の残置構成員の身元と、痕跡の消去について、六課として協力できる範囲を確認させてください」
「もちろん。そのためにいらしたんでしょう」
「最低限の確認です。今夜の件が表に出た場合、私たちが最初に矢面に立つことになる」
「ああ。それは申し訳ない」
慧が言った。申し訳なさそうには一切見えなかった。塔子は短く息を吐き、また胃薬を一錠飲む。
「……烏丸さん」
「なんですか、霧島くん」
「私、この仕事を引き受けた時、ここまでの頻度で胃薬を飲む羽目になるとは思っていませんでした」
「ははは。それは体に気を付けてください」
「笑い事じゃないです」
塔子の声は平坦だが、それ自体が彼女の疲弊の深さを示している。それから話は、業務報告から情報の照合へ、情報の照合から今後の方針へと移り、やがてどこかで糸が緩んだように、自然と違う方向へ流れ始めた。
きっかけは凪だった。
「ていうかさ」
凪はキャスター付きのチェアを滑らせながら、エナジードリンクの新しい缶を開けた。
「俺、今夜のドローン四機持ち込んで、結局使ったのは偵察用の一機だけだったんだけど」
「それだけ遥が仕事を早く片付けたということだよ」
「いや分かってるんだけどさ。俺、改良した攻撃ドローン持ってきてたの。新しい照準システム積んで、ようやく実戦テストできると思って。なのにまーた出番なし」
「……文句あるのか」
遥がソファから片目を開けて言った。
「文句じゃないよ。ただ、せっかく三日かけて調整したのに、って話」
「次があるだろ」
「次もたぶん出番ないじゃん、お前がいると」
凪の言葉に、事務所に薄い笑いが漂った。笑ったのは慧と——意外なことに、烏丸だった。
「いやぁ、贅沢な悩みですねえ、灰谷くんは」
「贅沢じゃないです。エンジニアの労働環境の問題です」
「……ドローンを飛ばして人を狙う仕事をエンジニアと呼ぶのは、いささか語弊があると思いますが」
ソフィアがデスクから静かに言った。凪が機敏に振り返る。
「お堅いさんはそういうこと言う」
「事実を言っています」
「俺の仕事が何かは俺が決める」
「不法行為を仕事と呼ぶのは自由ですが、私は賛同しかねます」
「君が今夜やったことだって大概でしょ、口座凍結とか」
「あれは合法的な手続きの範囲内です」
「結果は同じじゃん、奴らの金が使えなくなるって点では」
「手段と結果は別物です。法学の基礎を学ばれることをお勧めします」
ソフィアが敬語を崩さないまま鋭く切り返す。凪が”うわ出た、ルール厨モード”と呟き、ソフィアの碧眼が剣呑に細くなった。
「ルール厨、ではなく――」
「まあまあ」
慧が銀貨を弾いて、二人の間に割って入った。
「二人とも、今夜の功績に変わりはない。凪の電子制圧がなければ遥は三倍の時間がかかっていたし、ソフィアの資金凍結がなければ今夜の混乱も生まれなかった。……これこそチームプレーだよ」
短い沈黙の後、凪が”まあ”と呟いた。ソフィアが小さく息を整えてデスクに視線を戻した。それ以上は続かなかった。やれやれ、といった風にグラスに残ったアイラモルトを静かに傾けると、慧は惣一の方へ向き直る。
「烏丸さんのところは、今夜の件で動ける人員は揃っていますか」
「まあ、それなりには」
「”それなりに”というのは、今夜中に工場へ入れるということですか」
「……明朝までには、なんとか」
「なんとか、ですか」
慧の声は穏やかだが、その一言一言に精確な圧があった。塔子が缶コーヒーを床に置き、眉間の皺をさらに深くした。
「正直に言います。今夜だけで私が処理しなければならない案件が四件あります。うちの部署の人員は表向きの業務と並行して動いているので、今夜の工場の事後処理を最優先にするには、他の何かを後回しにする必要がある」
「それは――大変ですね」
「大変です」
塔子は一切の遠慮なく言った。
「それから、先月の件の報告書がまだ上に通っていない。烏丸さんが”すぐ出す”と言って三週間です」
「うーん、あれはちょっと書き方が難しくて」
「私が代わりに書きましょうか。烏丸さんの署名だけ貰えれば済む話です」
「……霧島くんが書いたら、正直すぎて上が困ると思うんだよね」
「困らせて何が悪いんですか」
惣一が苦笑する。この部下の容赦のない合理主義が、惣一にとって唯一の苦手分野であることを、遥は何となく察していた。
遥はソファに深く身を沈めたまま、頬のガーゼを指先でごく軽く確かめた。痛みは落ち着いてきている。ソフィアの処置が丁寧だったせいか、或いは単に疲弊で感覚が鈍くなっているのか、どちらとも言えなかった。
「黒瀬くんはどうです? 最近」
惣一が遥に向けて言った。声のトーンはいつも通り軽い。しかしその問いかけの輪郭は、意図的にぼかされている。仕事の話なのか、体調の話なのか、あるいは全く別の何かなのか――烏丸はいつもそうやって、どこにでも着地できる言葉を投げる。
「別に」
「元気そうで何より。……頬の傷は?」
「もう聞かれた」
「私が聞いたんじゃないですよ」
「……大した傷じゃない」
「そうですか」
惣一はどら焼きの最後の一口を飲み込み、袋を丁寧に畳んだ。その几帳面な手つきが、くたびれたトレンチコートの外見とひどく不釣り合いだ。
「……まあ、今夜の仕事は本当に助かりました。お礼と言っては何ですが——来週、例の情報ルートの窓口を一つ、お渡しできると思います。ソフィアさんが欲しがっていた、某省の規制法案の草稿を入手可能なルートです」
ソフィアの手が、デスクの上で一瞬だけ止まった。
「……それは、本当ですか」
「嘘をついても得しませんからね、私は」
ソフィアは数秒間、モニターを見つめたまま黙っていた。それから慧に向かって静かに言う。
「桐生サン。来週のスケジュールを一部調整していただけますか」
「もちろん」
慧は口の端だけで笑った。
「烏丸さん、いつも絶妙なタイミングで絶妙なものを持ってくるね」
「ご近所付き合いですから」
「ご近所付き合いにしては、随分と計算が細かい」
「桐生さんにそう言っていただけると、光栄ですねえ」
二人の間に穏やかな、一切気の抜けない空気が流れた。互いに手の内を晒さず、互いに晒していないことを了解した上で――この二人の間にある緊張の質は、遥や凪のそれとは全く異なる種類のものだった。
ふと塔子が立ち上がり、コートの前ボタンを留めた。
「烏丸さん、そろそろ行きましょう。工場の件、明朝までに手配します」
「あ、もうちょっと――」
「もうちょっとも何もありません。今夜だけで私の残業時間が何時間になっているか、計算したことがありますか」
「……霧島くんは本当に、融通が……」
「融通を利かせるから仕事が溜まるんです!」
塔子はそれだけ言って、コートの内ポケットから新しい缶コーヒーを取り出した。どこから出てきたのか誰も気づいていなかった。彼女は蓋を開け、胃薬を一錠流し込んでから、遥たちへ向けて短く頭を下げた。
「今夜の件、六課として確認しました。後続の処理はこちらで。……ご苦労様でした」
「相変わらず、敵か味方か分からない礼の仕方だな」
出し抜けに遥が言う。塔子の眉間の皺が一瞬だけ深くなった。
「敵でも味方でもありません。今のところは、同じ方向を向いているだけです」
「正直なことで」
「……嘘は書類仕事が増えるので嫌いです」
それだけ言って、塔子は扉の方へ向かった。惣一が慌てて立ち上がり、どら焼きの袋をトレンチコートのポケットへ押し込みながら、来客用の椅子をきちんと元の位置に戻した。その律儀さが、やはりくたびれた外見と噛み合わない。
「また来ます。桐生さん、次もよろしくお願いしますよ」
「ええ。いつでもどうぞ」
慧の返答は穏やかで、しかし内に”相応のものを持ってくれば”という続きが透けて見えた。惣一はそれを受け取った上で笑顔を返し、塔子の後を追って扉へと向かう。
ぱたり、と重厚なマホガニーの扉が閉まった。二人分の足音が廊下を遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなるまで、事務所の中では誰も口を開かなかった。
静寂が戻った瞬間、凪が真っ先に息を吐いた。
「……あのおじさん、来るたびに空気が張り詰めんだよな」
「烏丸さんはそういう人だから」
慧は銀貨を再び指の上に乗せ、ゆっくりと転がし始めた。
「でも今夜の情報ルートは本物だよ。あの人が嘘をつく時は、もっと手が込んでいる」
「……信用してるんじゃないですか、結構」
ソフィアが静かに言った。
「信用と利用価値の評価は別物だよ、ソフィア」
「同じに見えますが」
「似て非なるものだ。……烏丸さんを信用している人間は、この街に一人もいないと思う。ただ、あの人の仕事は信頼できる。それだけだ」
ソフィアは少し考えてから”なるほど”とだけ言った。納得したのか、していないのか、判然としない声だった。
遥はソファに背を預けたまま、目を閉じていた。頬のガーゼが、体温でじんわりと温かくなっている。今夜片付けたこと、今夜得たもの、今夜烏丸の目の奥で動いた光――全部が、疲労の底で泥のように沈んでいく。
「おーい遥、寝るなよ」
凪が言った。
「寝てない」
「目ぇ閉じてるじゃん」
「考えてる」
「嘘つけ」
やり取りに慧が小さく笑う。ソフィアはデスクに向き直り、タイピングを再開した。その音が、静かな事務所に一定のリズムを刻み始める。
バーカウンターの間接照明が、深夜の室内を落ち着いた琥珀色に染めていた。アイラモルトの香りと、冷めかけた紅茶の香りと、かすかに残るどら焼きの甘い匂いが混ざり合っていた。
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