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#メイ恋
かにいぬ
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第10算話 見えない式
その日は、風が道の形を忘れていた。
坂の上から下へ素直に流れず、家と家の間へ細く割れ、塀の角で戻り、用水路の上でまたほどける。
目で見れば、ただの夕方の風だ。
なのに、ローリエには妙に気になった。
駄菓子屋の戸を開けた瞬間、その違和感の理由が少しだけ分かった。
店の中の空気まで、まっすぐじゃなかった。
甘い粉のにおい。
紙箱の乾いたにおい。
缶のふたの鉄っぽい気配。
そこへ、知らない静けさが一本、斜めに差し込んでいる。
レジの横に、ひとり立っていた。
灰色の上着。
長めの袖。
落ちる髪。
細い目。
その人は、ローリエを見た。
いや、見たように見えて、次の瞬間にはもう違う場所を見ていた。
視線が止まらないわけではない。
止まっているのに、そこへ意味が残らない。
触れたはずの場所が、すぐに元へ戻る。
「来たね」
声も軽くない。
重くもない。
置いたのか、流したのか、分からない言い方だった。
おばあちゃんがレジの奥から言う。
「グラスじゃよ」
名前だけが、そこへ落ちる。
グラスは少しだけ首を傾けた。
「組む子だって聞いた」
ローリエは返事をしなかった。
返事をしたところで、その言葉がこの人の中でどう使われるのか、見えなかったからだ。
「読むの、好き?」
グラスが言う。
「好きです」
思わずそう返していた。
本当だった。
読むことは好きだ。
順番を見つけることも、崩れない形を立てることも、途中の処理をつなぐことも。
だからこそここまで来た。
グラスの口元が、ほんのわずかにゆるんだ。
「なら、たぶんこわいよ」
その言い方が、からかいには聞こえなかった。
店先へ出る。
坂の脇のひらけた場所。
用水路の音。
石段の端。
見慣れた場所のはずなのに、今日だけはどこか角度が違う。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、いつのまにか塀の向こうへ来ていた。
ふたりとも静かだ。
いつもなら何か言うのに、今日は最初から少しだけ息をひそめている。
グラスは空き地の真ん中へ立つ。
その立ち方も妙だった。
右へも左へも、前へも後ろへも、まだどこへも行っていない立ち方。
なのに、次にどこへ動くのかだけが見えない。
「先にどうぞ」
ローリエはそろばんを出した。
袋を開く。
水色。
茶色。
軽い珠。
受ける形から入るか、広げる形を先に置くか。
相手はどう来る。
細い視線。
軽い足。
風を読むなら、貫く形か。
そこで、グラスが言った。
「風、って呼ぶんだ」
ローリエは顔を上げる。
「え」
「ぼくは闇って呼ぶ」
その言葉が、夕方の風へ薄く落ちた。
闇。
ローリエの中で、いつもの流れが一瞬だけ揺れる。
風は加速で、貫通で、細く速いものだと思っていた。
それを、闇と呼ぶ。
見えないからか。
読めないからか。
あるいは、最初からそういう意味で使うのか。
考えが一拍だけ遅れた。
その一拍のあいだに、グラスはもう珠を置いていた。
少ない。
しかも、きれいではない。
上段にひとつ。
下段にひとつ。
その右へ、軽い珠のように見えるもの。
だが、止め方が少しだけ浅い。
いや、浅く見せているだけかもしれない。
崩れている。
そう見えた。
なら、読むのは難しくない。
浅いなら、そのまま抜ける。
右へ寄っているなら、次は軽く刺す。
最後は、受ける前にかわして——
ローリエはその読みで、水色を上へ、茶色を下へ、右へ軽い珠を置いた。
最初の受けから、次で押し返し、最後に浅く刺す形。
きれいだ。
きれいだから、遅くない。
今の自分なら、これで間に合う。
弾く。
パチ。
最初の流れが前へ出る。
板の代わりに、今日の相手はグラスの足元だ。
そこへ、軽い押しを通す。
そのはずだった。
グラスが打ったのは、そのあとだった。
遅い。
でも遅すぎない。
乾いた音が、風の裏から来る。
ローリエの一打が前へ進む前に、横へずれた。
いや、横へずれたように見えた。
足元の砂はたしかに前へ行ったのに、その結果だけが斜めへ抜ける。
「……え」
思わず声が漏れる。
グラスは動いていない。
なのに、自分の読みだけが動かされたみたいだった。
「ほら」
グラスが言う。
「読んだでしょ」
読んだ。
たしかに読んだ。
でも、その読んだ先へ、自分の思っていない結果が出た。
フェイント。
いや、それだけじゃない。
入力そのものが崩れていたのか。
わざと浅く止めていたのか。
見えている形が、本当の形じゃない。
ローリエは次を置く。
今度は軽く広げて、正面ではなく左右を取る。
見た目が崩れているなら、結果の逃げ道を先に潰す。
珠を入れる。
止める。
右へ。
グラスは、今度は何も言わない。
ただ、また少ない珠を置く。
その位置が、さっきよりさらに読みにくい。
上段の位置は軽いのに、下段が少し深い。
右の珠は刺すようにも受けるようにも見える。
どっちだ。
ローリエは息を浅くした。
どっちでもない、という可能性が頭をよぎる。
その時点で、もう相手の思うつぼかもしれない。
弾く。
ローリエの広がりが前へ出る。
次で左右を浅く取る。
そこへ、グラスの一打。
見えた。
たしかに見えた。
なのに、どこへ来たのかが一瞬遅れた。
風みたいだった。
でも風なら、もっと素直に抜ける。
これは、途中で一度ほどけて、別のところへ結び直されたみたいな動きだった。
ローリエの左右へ広げた受けの、そのすき間へ細く落ちる。
「っ……」
肩をひく。
制服の脇を何かがかすめる。
軽い。
けれど、軽いまま終わらない。
遅れて、背中側の空気がひやりとする。
抜けた。
いや。
最初からそこへ抜けるための形だったのだと、遅れて分かる。
「風じゃない」
ローリエが思わず言うと、グラスはほんの少しだけ笑った。
「だから闇」
その返しに、腹の底が冷えた。
呼び方が違うだけではない。
考え方が違う。
風なら、速さと貫通の線で読める。
闇と呼ばれると、それは最初から、見えても捕まらないものになる。
ローリエは三打目へ行く前に、手を止めた。
止めるつもりはなかった。
でも、頭が追いつかなかった。
グラスの入力は雑に見える。
浅い。
崩れている。
なのに、その崩れが全部、読ませるための崩れだ。
そこへ意味を見つけた瞬間、その意味ごと外される。
「読むと遅れるよ」
グラスの声はやわらかい。
やわらかいのに、言葉は冷たい。
ローリエは歯を食いしばり、今度は読みきらずに打つことを決めた。
全部を理解する前に置く。
途中で切る。
見えた危険だけを避ける。
水色をひとつ。
茶色をひとつ。
右は浅く。
最後を置かない。
弾く。
今度は少しだけうまくいった。
最初の広がりは崩される前に立つ。
次の受けも、浅いままでも一瞬だけ場を保つ。
そこへ、グラスは打たない。
打たないことで、ローリエの中に次の迷いが生まれる。
来るはずのものが来ない。
来ないなら、今のうちに右を足すか。
いや、足した瞬間に誘われるか。
なら下がるか。
でも下がること自体を読まれているかもしれない。
待っている。
この相手は、速くない。
遅くもない。
待たせてくる。
ローリエはその待ち方のいやらしさに、ようやく気づいた。
イオウは来る前に息を詰まらせる。
かけは積み上げの深さで沈めてくる。
グラスは、こちらの頭の中に余計な道を増やしてくる。
理屈が増えるほど、道に迷う。
「……っ」
ローリエは右を足した。
足さないと、自分の中の中途半端さに耐えきれなかった。
その瞬間だった。
グラスが打つ。
パチ。
たった一打。
なのに、さっきまで何もなかった場所から、急に細い圧が立つ。
しかも、ローリエが右を足したことで生まれた小さな空きへ、まっすぐではなく斜めから落ちる。
誤算誘導。
自分で空けた。
自分で誘われた。
ローリエのそろばんを持つ手がぶれた。
ぶれた、その揺れへさらに遅れて別の冷たさが走る。
二発目は見えなかった。
見えなかったというより、一発目の影に入っていた。
肩が引かれ、足が半歩ずれる。
石段の端が靴底に触れる。
短い髪の子が、塀の向こうで小さく悲鳴を呑む。
結び目のゆるい髪の子は、両手を口へ当てていた。
ローリエは息を整えようとした。
でも、整えるより先に、頭の中で形が崩れていく。
見えているのに読めない。
それが一番こわかった。
見えないなら、まだいい。
分からないなら、まだ構えられる。
でも、この相手は見えている。
珠の位置も、指の動きも、弾く瞬間も。
全部見えているのに、その意味だけがこちらの手に入った瞬間からすり抜ける。
「なんで」
ローリエの声は低かった。
「崩れてるのに」
グラスは目を細めた。
「崩してるから」
その一言が、風のない場所へ落ちる。
崩れているのではない。
崩している。
わざと浅く。
わざと半端に。
わざと読めるように。
その上で、読ませた意味をあとから折る。
ローリエは、自分がこれまで頼ってきたものを思った。
組めば読める。
正しく置けば流れが分かる。
位は順に通る。
珠は命令で、数字は強度だ。
全部、正しい。
正しいのに、今目の前の相手には、それだけで届かない。
「式、好きでしょ」
グラスが言う。
「だから式で見ようとする」
ローリエは返せなかった。
その通りだった。
見えた珠の位置。
止め方。
数字の軽さ。
位の並び。
それらを全部つないで、意味にする。
そうやってここまで来た。
でも、この相手は、そのつなぎ方自体を揺らす。
ローリエは、それでも次を組もうとした。
見るな、と自分へ言う。
全部を理解しようとするな。
見えた危険だけを切れ。
だが、見えた危険が本物かどうかすら、この相手では怪しい。
水色を上へ。
茶色を下へ。
軽く切る。
そこでやめる。
弾く。
浅い受けが立つ。
グラスは今度、ほとんど同時に打った。
同時に見えた。
なのに、音は少し遅れて来た。
ローリエの浅い受けが、そのまま自分の足元へ返る。
前へ出したはずのものが、後ろから引っかかるみたいな嫌な感覚。
自分の式が、自分にとって異物になる。
「っ、あ……!」
体勢が崩れる。
今度は避けきれず、肩の内側へ細い痛みが入った。
鋭くない。
でも、息を切らせるには十分だった。
膝が土へつく。
見上げると、グラスは最初と同じ位置にいる。
前へも出ていない。
大きくも動いていない。
なのに、場だけが向こうのものになっている。
「戦いって」
グラスが静かに言う。
「理解することだけじゃないよ」
その言葉に、ローリエの胸の奥がずしりと沈んだ。
分かっていなかったのかもしれない。
読むこと。
理解すること。
順番を見つけること。
それができれば、どこかで追いつけると思っていた。
でも違う。
相手の式を理解することだけが、戦いではない。
読めないまま切ることもいる。
意味が揃わないままでも動くことがいる。
こちらの理解が追いつかないこと自体を前提にした相手も、いる。
理屈が通じない。
そのこわさが、今やっと、肩の痛みより深く入ってきた。
グラスはそれ以上追わなかった。
追わないまま、そろばんを静かに下ろした。
「今日はこのへんで」
その区切り方も、まるでこっちの呼吸を読んでいたみたいだった。
ローリエは立ち上がれなかった。
膝をついたまま、そろばんの珠を見る。
ずれていない。
壊れてもいない。
なのに、自分の頭の中の並びだけが全部ずれている。
短い髪の子が、塀の向こうから言う。
「ずるい」
前にも似た言葉を聞いた。
でも、今日のそれは少し違った。
怒りより、理解できないものへのこわさが混じっている。
グラスはそちらを見なかった。
「見えてるものが全部ほんとなら、楽だよね」
それだけ言って、坂の下へ歩き出した。
足音はやはり残らない。
どこへ重心を置いているのか、最後まで分からない歩き方だった。
夕方の風が、灰色の上着の裾だけを細く揺らす。
その背中が見えなくなっても、ローリエの中ではまだ何本もの細い線がほどけきらずに残っていた。
おばあちゃんが店先から下りてくる。
モカ色の割烹着の裾が、石段の角へ触れる。
「立てるかい」
ローリエは小さく頷き、手をついて立ち上がった。
肩が少し痛む。
でも、それより頭の方がぐらついていた。
「読めたのに」
思わず出た声は、悔しさより戸惑いが強かった。
「見えてたんです」
おばあちゃんはすぐには返事をしない。
代わりに、ローリエのそろばんへ一度だけ目を落とし、それから坂の下を見る。
「見えてたね」
「じゃあ、なんで」
「見えることと、捕まることは違う」
その返事は短い。
短いのに、今日の戦いの輪郭だけはきちんと掴んでいた。
ローリエはそろばんを抱えるみたいに持った。
「ぼく、組めば読めると思ってた」
「うん」
「崩れてるなら、どこが崩れてるか分かると思ってた」
「うん」
「でも、あれは」
言葉の先が、しばらく出なかった。
短い髪の子が塀を回り込んで、少しだけ近づいてくる。
結び目のゆるい髪の子も、その後ろからおずおずとついてくる。
「変だった」
短い髪の子が言う。
「見えてたのに、どこに行くか分かんなかった」
結び目のゆるい髪の子も、こくりと頷く。
「こわかった」
ローリエは、その言葉に返事ができなかった。
自分も、同じだったからだ。
おばあちゃんが、静かに言う。
「理屈が通る相手ばっかじゃない」
ローリエは顔を上げる。
「でも、理屈がないわけじゃない」
「……あるんですか」
「あるよ」
おばあちゃんは、そこで少しだけ目を細めた。
「ただ、おまえさんの読み方と違うだけじゃ」
違う読み方。
その言葉は、救いにも脅しにも聞こえた。
意味がないわけではない。
ただ、自分の慣れた意味づけが通じないだけ。
なら、戦いの中には、まだ知らない文法がいくつもあるのだろうか。
ローリエは肩の痛みを押さえながら、ゆっくり息を吐いた。
「……こわいです」
口にした瞬間、少しだけ楽になった。
強がるより先に出た本音だった。
おばあちゃんは、そうかい、とだけ言った。
否定しない。
軽くもしない。
「こわいもの見たら、目の幅が変わる」
それだけ続ける。
短い髪の子が、ローリエの顔を覗き込む。
「泣きそう?」
「泣かない」
「でも顔へこんでる」
「そういう顔なんだよ今」
結び目のゆるい髪の子が、そっと言う。
「次は、全部読まなくてもいいのかも」
その言葉に、ローリエは少しだけ目を見開いた。
全部読まなくてもいい。
イオウの時は、決めるのが遅かった。
かけの時は、積まれる深さに沈んだ。
そして今日は、読むことそのものが罠になった。
全部を理解しようとするほど、遅れる。
あるいは、誘われる。
そうだ。
もう、そこから目をそらせない。
「……分かってきた気がする」
ローリエが呟くと、短い髪の子がすぐ聞き返す。
「何が」
「ぼくが、見すぎるってこと」
それを言った瞬間、胸の中で何かが少しだけ痛んだ。
けれど、その痛みは必要なものにも思えた。
見すぎる。
正しく見ようとしすぎる。
全部を式にしようとする。
そういう自分の癖が、今日のこわさを大きくした。
おばあちゃんが言う。
「組めるのは長所じゃ」
「はい」
「でも、組みたがるのは癖になる」
坂の上から風が一本、降りてきた。
看板の紐が鳴る。
用水路の音が、少しだけ近くなる。
ローリエはそろばんを袋へ戻さず、そのまま木枠を指でなぞった。
止める場所も、順番も、命令も、強度も、全部まだここにある。
でも、それだけでは足りない相手がいる。
理屈が通じないのではなく、自分の理屈だけでは通らない。
その事実が、夕方の坂の色より濃く残った。
「帰るかい」
おばあちゃんが言う。
ローリエは小さく頷いた。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、少しだけ道をあける。
ふたりとも、何か言いたそうで、でも今日はあまり言わない。
それが逆にありがたかった。
坂を下りる前に、ローリエは一度だけ振り返った。
駄菓子屋の戸。
おばあちゃんの小さな影。
塀の向こうのふたり。
いつも通りの景色のはずなのに、今日はその向こうに、もうひとつ別の層が見える気がした。
見えるのに、名前がまだついていない層。
グラスはそれを闇と呼んだ。
その呼び方が正しいかどうかは、まだ分からない。
でも、風と呼んでいたものの中に、自分が見ていなかった深さがあるのは分かった。
坂の下へ歩き出す。
足元の石が、いつもより少しだけ遠い。
理屈が通じない相手は、こわい。
でも、そのこわさに名前がついたことで、今までより少しだけ逃げにくくもなった。
ローリエはそろばんを抱えるみたいに持ち直した。
全部を読もうとするのは、たぶん、また誘われる。
なら、どこまで読むのか。
どこで切るのか。
どこから先を、読めなくても動くのか。
その答えはまだ見えない。
見えないまま、夕方の坂だけが少しずつ深くなっていった。
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わあ、第10算話、読み終えました……! まず「風を闇と呼ぶ」って台詞、すごく心に残りました。見えてるのに読めない、読んだ瞬間にすり抜ける——その感覚が、文体のひとつひとつから伝わってきて、ちょっと息が止まるような戦いでした。ローリエが初めて自分の“見すぎる癖”と向き合う場面、胸がぎゅっとなりました。 グラスの“待たせてくる”間合いの取り方、あれは本当に嫌な相手ですよね(褒めてる)。読ませるために崩すって、理屈の裏を取る発想。おばあちゃんの「理屈が通じない相手ばっかじゃない」も沁みました。 それと、風の描写がずっと詩的で美しかったです。「道の形を忘れた風」—もう、この一文で世界観に引き込まれました。次が楽しみです🌷