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#メイ恋
かにいぬ
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第11算話 重すぎる珠
軽いはずなのに重い。
その違和感は、言葉にしてしまうと急に安っぽくなるくせに、
指の中ではずっと消えなかった。
ローリエは放課後の坂を上がりながら、かばんの中のそろばんへ何度も意識を向けていた。
見えないのに、そこだけ少し深い。
木枠が教科書へ当たるたび、重さが遅れて返ってくる。
駄菓子屋へ着く前に、坂の途中の石段で足を止める。
用水路の音。
遠くで鍋のふたが鳴る音。
誰かの笑い声。
町はいつも通りだった。
自分だけが、まだ少しずれている。
戸を開けると、甘い粉のにおいが流れてきた。
おばあちゃんはレジの奥で缶のふたを重ねている。
「いらっしゃい」
ローリエは、ただいま、と言いかけてやめた。
代わりに、かばんを下ろして、そろばんを出した。
木枠がレジの上で小さく鳴る。
おばあちゃんは一度それを見て、それからローリエの顔を見た。
「まだ引っかかっとるね」
「はい」
「軽いのに重い」
ローリエがそう言うと、おばあちゃんは短く頷いた。
否定しない。
でも、すぐ答えも出さない。
その時だった。
戸が乱暴に鳴った。
ふたりとも同時にそちらを見る。
入ってきたのはチョウだった。
灰色の上着。
片側だけ長い裾。
跳ねた茶色の髪。
前に見た時より顔色はましだったが、口元のいやな軽さまでは消えていない。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子も、店の外からついてきていたらしく、戸の横でぴたりと止まる。
一瞬、空気が固まった。
ローリエの肩が先にこわばる。
けれど、チョウは今日はまっすぐレジへは来なかった。
店の真ん中で立ち止まり、ローリエのそろばんだけを見た。
「やっぱりな」
その声は、前みたいな荒っぽさと少し違った。
見つけたものへ納得する声だった。
ローリエは眉を寄せる。
「何しに来た」
「助け船」
短い髪の子がすぐに顔をしかめる。
「うそくさい」
チョウはそっちを見もしない。
「おまえのそれ、普通じゃねえよ」
その一言で、店の中の空気が少し変わる。
ローリエは返さなかった。
返す前に、胸の奥のどこかが先に鳴っていたからだ。
おばあちゃんは缶のふたへ手を置いたまま、黙っている。
止めもしない。
促しもしない。
チョウが、レジへ二歩近づく。
「軽く入れたつもりで、深く出るだろ」
ローリエの指がそろばんの縁へ触れた。
「……なんで知ってる」
「見りゃ分かる」
「見ただけで分かるわけ」
「あるんだよ、そういう子が」
チョウはそこで少しだけ笑った。
いやな笑い方だったが、今日はそこに別の色も混じっていた。
昔の傷を舌でなぞるような笑いだった。
「昔、それで何人も止まってる」
ローリエは黙ったまま、チョウを見る。
信じる理由はない。
でも、聞き流せる感じもしない。
「そのそろばん」
チョウが顎で木枠を指す。
「受け継いでるやつだろ」
ローリエの目がわずかに揺れる。
「なんで」
「顔がそうだ」
「顔で分かるかよ」
「道具の方の顔だよ」
言い返したいのに、言い返しきれない。
チョウの言い方は雑だ。
雑なのに、外していない感じだけはある。
おばあちゃんがそこで、ようやく口を開いた。
「どこで聞いた」
チョウは肩をすくめた。
「聞いたんじゃねえよ。見た」
「誰に」
「昔の古道具屋のじじいとか、そういうの」
適当にも聞こえる。
でも、まるきりでたらめの顔でもない。
チョウはポケットへ手を入れ、何かを探るみたいに指を動かした。
今日は盗むための手ではなく、記憶の底をひっくり返す手つきだった。
「坂本竜馬っているだろ」
短い髪の子が目を丸くする。
結び目のゆるい髪の子も、そっとローリエを見る。
チョウは続ける。
「昔、その人が使ってたそろばんの流れの一本だって話」
ローリエの喉が少し乾く。
「……え」
「徳川幕府を終わらせるごたごたの裏で、数字でも帳面でもないもんを動かしたって」
チョウは、言葉を選んでいるわけではない。
でも、口から出るたびに店の空気が少しずつ深くなる。
「表では、ただのそろばんだ。けど裏じゃ、妙に深い処理が走る。軽く置いただけで、向こうの読みが割れる。妖術みてえだって言われてたらしい」
妖術。
その言葉は古くさいのに、ローリエの手の中の違和感とは妙につながった。
軽いはずなのに重い。
浅いはずなのに深い。
ただのずれではなく、最初からそういう癖なら。
「……そんな話」
ローリエが呟くと、おばあちゃんが静かに言った。
「話としては残っとる」
ローリエは顔を上げる。
おばあちゃんは否定しない。
肯定もしすぎない。
その間の細い場所へ立っている。
「ほんとに?」
短い髪の子がたまらず聞く。
おばあちゃんは缶のふたを重ねながら答えた。
「本当かどうかは、昔を見た人しか分からん」
「でも」
結び目のゆるい髪の子がそろばんを見る。
「重いのは、本当なんだよね」
その言葉に、ローリエは息を止めた。
目の前で起きたことは、本当だ。
軽く入力したつもりで、深く出た。
掛けた瞬間に、思った以上の負荷が走った。
止まった。
動けなくなった。
それは作り話ではない。
チョウが鼻で笑う。
「強いって意味じゃねえぞ」
その言い方は、妙にまっすぐだった。
「扱いにくいってことだ」
ローリエはチョウを見る。
そこに、前みたいな勝ち誇りはない。
代わりに、自分もどこかで同じものに振り回されたことのある顔が、ほんの少しだけ見えた。
「軽い入力でも重い処理が走りやすい」
チョウは言う。
「だからおまえ、思ってるより先で詰まる」
オーバーフロー。
その言葉を、ローリエは口にしなかった。
でも、頭の中でははっきり浮かんでいた。
「じゃあ、ぼくが弱いだけじゃないってこと?」
言った瞬間、自分でも少しだけいやな言い方だと思った。
言い訳に聞こえたからだ。
おばあちゃんが先に返した。
「弱いところは弱いよ」
ローリエは口を閉じる。
「決めるのが遅いのも」
「読みすぎるのも」
「整えたがるのも」
おばあちゃんの声はいつも通りやわらかい。
なのに、逃げ道を残さない。
「それはおまえさんの未熟さじゃ」
ローリエの胸の中へ、その言葉が重く落ちる。
チョウがそのあとを継ぐ。
「でも、道具の深さまで同じに考えたら、余計に狂う」
店の中がしんとする。
短い髪の子も、結び目のゆるい髪の子も黙っている。
言葉のひとつひとつが、いまは遊びの輪より深い場所へ落ちていた。
ローリエはそろばんを手に取った。
木枠の角。
珠の並び。
いつもと同じ感触のはずなのに、今は少し違って見える。
「確かめたい」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
おばあちゃんが頷く。
レジ横の紙袋をひとつ立てる。
その向こうに、薄い板。
さらに小さな木箱。
「いつもより一つ軽く」
それだけ言う。
ローリエは珠の袋を開く。
水色を選ぶ。
茶色を選ぶ。
軽い数字の珠を選ぶ。
いつもなら、これで袋が揺れて、板の手前が少し鳴るくらいだ。
上から。
止める。
下から。
止める。
右へ軽く。
弾く。
パチ。
袋が揺れる。
そこまでは予想通りだった。
だが、その次。
板が後ろへ傾き、小さな木箱の角まで短く鳴る。
短い髪の子が思わず声を上げる。
「いった」
結び目のゆるい髪の子も、小さく息をのむ。
ローリエはそろばんを見つめた。
軽くした。
一つ軽くした。
なのに、いつもの軽さでは終わらない。
「……ほんとだ」
口からこぼれた声は、驚きより静かだった。
驚きはもう、少し前から始まっていたのだろう。
チョウが壁にもたれながら言う。
「な」
それだけだった。
威張るでもない。
でも、自分の見立てが当たったことには満足している顔だった。
ローリエは今度、さらに軽くしてみる。
最後の一打を置かない。
途中で切る。
最初の流れだけを出す。
それでも、紙袋の後ろに置いた板が小さく鳴った。
浅くしたのに、浅く終わらない。
「普通じゃない」
短い髪の子がぽつりと言う。
おばあちゃんは、その言葉を否定しなかった。
「深い子はおる」
「でも、どうして」
結び目のゆるい髪の子が聞く。
おばあちゃんはローリエのそろばんを見てから、少しだけ遠くを見る目になった。
「長く持たれた道具はね」
「前の手の癖をどこかに残すことがある」
前の手。
先祖代々。
坂本竜馬。
徳川幕府の終わり。
妖術。
さっきまで遠かった言葉たちが、木枠の表面へ細く浮いてくる。
もちろん、全部をそのまま信じるには古すぎる。
けれど、自分の手元で起きている違和感の方が、今はもっと確かだ。
ローリエは、そろばんの端を親指でなぞった。
木のなめらかなところと、少しだけ乾いたところがある。
今まではただの古さだと思っていた。
でも、その古さの中に、自分の知らない深さが沈んでいるのかもしれない。
「じゃあ」
ローリエはゆっくり言った。
「ぼくは、弱かった」
「それは本当で」
おばあちゃんがうなずく。
「でも」
ローリエはそろばんを見つめたまま続ける。
「この子も、普通じゃなかった」
おばあちゃんは少しだけ目を細めた。
「そうかもしれんね」
チョウが、そこで笑う。
前みたいないやな笑いではない。
どこかで、自分より面倒なものを抱えた相手を見つけた時の笑いだった。
「だから言ったろ」
ローリエはチョウを見た。
まだ好きにはなれない。
でも、今日この瞬間だけは、こいつの言葉が助け船だったのも事実だった。
「なんで助けた」
そう聞くと、チョウは肩をすくめる。
「おまえ、そのままだと、全部自分のせいにして潰れそうだったから」
短い髪の子がすぐ言う。
「やさしいふりすんな」
チョウは鼻で笑う。
「してねえよ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ店の空気がゆるむ。
でも、ローリエの胸の奥はむしろ重くなっていた。
軽くなったわけではない。
原因がひとつ増えたからだ。
自分が未熟だから負けていた部分。
道具の重さを制御できていなかった部分。
どちらか片方ではなかった。
それが、少しだけ救いで、
それ以上に、少しだけ怖かった。
「……じゃあ」
ローリエはそろばんを持ち直す。
「ぼくは、この深さごと扱えないといけないんだ」
誰に言うでもなく、口から出た言葉だった。
おばあちゃんが言う。
「逃げてもええよ」
ローリエは顔を上げる。
「え」
「扱いにくい道具を、無理して好きにならんでもええ」
その言葉は、やさしいのに厳しかった。
選ばせる言い方だからだ。
ローリエはしばらく黙った。
店の外で風が紐を鳴らす。
短い髪の子と結び目のゆるい髪の子が、黙って待つ。
チョウは壁にもたれたまま、こちらを見ている。
逃げる。
その言葉を頭の中へ置いてみる。
楽になるかもしれない。
少なくとも、何が起こるか分からない重さを抱えなくて済む。
でも、そのあとで、自分はこのそろばんをただの扱いにくい物として置いていけるか。
ローリエは、少しだけ首を振った。
「まだ」
声は小さい。
でも、はっきりしていた。
「まだ、触ってみたい」
おばあちゃんはそれを聞いて、何も言わなかった。
代わりに、レジ横の缶のふたを静かに閉める。
その音が、返事みたいだった。
チョウは壁から背を離す。
「じゃ、用は済んだ」
「どこ行くの」
短い髪の子が聞く。
「さあな」
チョウは戸へ向かう。
片側だけ長い裾が、今日も少し遅れて揺れる。
出る前に、一度だけ振り返った。
「軽いから安全って思うなよ」
ローリエは黙って頷いた。
戸が閉まる。
店の中に、またいつものにおいが戻る。
甘い粉。
紙箱。
缶のふた。
でも、もう同じ店の中には見えなかった。
木箱も、袋も、立てた板も、全部がさっきより深い位置にある。
短い髪の子が、そろばんを見上げて言う。
「重い子なんだね」
結び目のゆるい髪の子も、そっと言う。
「でも、きれい」
ローリエはその木枠を見た。
古い。
静か。
見た目は変わらない。
なのに、軽く触れただけで、向こうへ行くはずのものが一段深く沈む。
「きれいで、重い」
ローリエはそう呟いた。
おばあちゃんが小さく頷く。
「そういう子もおる」
ローリエは、そろばんの珠をひとつずつ戻した。
カチ、カチ、と小さな音がする。
いつもと同じ作業。
でも、戻しているものが、前と同じではない気がした。
今日は、答えをもらったわけじゃない。
むしろ増えた。
見なきゃいけないものが増えた。
考える場所も増えた。
けれど、自分が全部だめだったわけではないと知れた。
同時に、自分だけじゃなく、道具の深さまで制御しなければならないと知った。
その両方が、胸の中で別々の重さを持っていた。
夕方の色が、少しずつ店の中へ入り込む。
レジの角。
木箱のふた。
そろばんの枠。
ローリエは、それらをひとつずつ見てから、そろばんをかばんへ戻した。
かばんの中で、木枠が教科書へ当たる。
その音はいつも通りなのに、今日は少しだけ深く聞こえた。
坂を下りる時、足取りは軽くなかった。
でも、ただ沈んでいる感じとも違う。
重さの正体が少しだけ見えたぶん、その重さを持つ場所が分かった感じだった。
未熟だから負けた。
それは本当。
でも、それだけじゃない。
道具の方にも、こちらの思っている以上の深さがある。
その事実は、言い訳にはならない。
むしろ、次からはそこまで含めて扱わなければいけないということだ。
坂の途中で、ローリエは一度だけ立ち止まった。
風が細く抜ける。
看板が鳴る。
町はいつも通りなのに、自分の手の中だけが少し変わって見える。
重すぎる珠。
そう呼ぶと、少しだけ怖い。
でも、もう目をそらせない名前でもあった。
コメント
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うわ、めっちゃいい回だった……。「軽いはずなのに重い」って感覚、読んでるこっちにもすごく伝わってきた。ローリエが「自分が弱いだけじゃなかった」って気づく瞬間、ほっとしたけど同時に「じゃあどうやって付き合っていくんだ」って新しい問いも残る感じがリアル。チョウが急に味方っぽくなるのも意外で、でも「助け船」って言葉に過去の自分を重ねてる感じがして憎めないキャラになったな。おばあちゃんの「逃げてもええよ」の優しい厳しさが刺さる。珠の軽さと重さ、両方抱えて進むって決めたローリエ、これからが本番って感じで続きが気になる!