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すぐにでも北部行きの馬車に乗りたい気持ちをぐっと堪え、シスさんの心配そうな視線と気遣いの言葉を受け流しながら今日一日をどうにか乗り切った。正直、全然誤魔化せてはいなかったと思う。顔色も悪かったみたいだし、気もそぞろだったし、私の大事な仕事だというのに掃除も失敗ばかりだったから。
それでも何とか、後は眠るだけという時間になった。寝衣に着替えるからと今は寝室に一人だ。ララは庭にあるツリーハウスに行っており、今日もそのままそこで眠るらしい。
(今のうちに荷物の用意をしないと)
寝室にあるクローゼットの奥にしまってあった旅行鞄を引っ張り出し、家出した時に持って来た物をその中に仕舞い込む。此処に来てから使っていた物は全て置いて行くつもりだ。それらは全て仕事をするにあたって用意してもらった物であり、私の物ではないから。だけど初めてシスさんと買い物に行った日に買った小さな鞄だけは旅行鞄に詰め込んだ。給料から天引きしておいてくれると言っていたから、これは私物と言っていいだろうし。それに、これは彼と、そしてララとの大事な思い出の品なので此処には置いては行けない。そうはしたくない。
……此処を出たらもう戻っては来られないだろう。散々世話になったのに勝手に出て行くんだ、厚かましく戻ってなど来られないもの。
(筋を通して、きちんと事情を話してから出るべきなんだろうけど……)
優しいシスさんの事だ、心配だから北部まで着いて来ると言いかねない。だけど彼には此処での仕事や生活がある。ルーナ族である彼ではあちこちに出て行くのは得策では無いだろうから、やはり伝えずにこっそり出て行こう。
長旅に耐えられる程ではないが、ひとまず荷造りは終わった。今まで此処で働いた分の給与もあるし、隠し部屋から持ち出した物を換金して得たお金もまだ潤沢にある。なので足りない物は道中で買えばいい。だけど街から離れてもそこかしこに店があるかはわからないから、馬車に乗る前には今一度必要そうな物を洗い出しておかねば。
鞄をベッドの下に押し込む。こんな場所は眠る前に一々見やしないだろうからきっと問題無いだろう。
「——よしっ」
一人達成感を感じながらベッドに入る。するとこちらが着替え終わったであろう頃合いを見て寝室にシスさんが入って来た。だが罪悪感からか、目を合わせる事が出来ない。
「……おやすみなさい、良い夢を」
「シスさんも。おやすみなさい」
他にも二、三言葉を交わし、掛け布団を被って私は眠るフリをした。これが彼と交わす最後の会話になるのかもしれないと思うと強く閉じた目から涙の粒が零れ落ちて枕が濡れてしまう。初恋に囚われる一方な自分の心を深く呪いながら、時が来るまでじっと耐え続けた。
時計の針が微かにカチリと音を立てる。こっそり顔を上げると時間はもう深夜一時になっていた。疲労と習慣のせいで少し眠ってしまっていたみたいだ。
そっと隣の様子を伺うと、シスさんの規則的な寝息が聞こえる。時間的にも深い眠りに落ちているタイミングだろうから、少しくらい動いても起きはしないだろう。——そうであってと強く願いながらベッドからこっそり這い出て、下に隠していた旅行鞄を引っ張り出す。出来る限り音を立てない様気を付けながら、私は寝室を後にした。
リビングで一度旅行鞄を開け、中から私服と上着を取り出す。どちらも家出をした時に着ていた物だ。懐かしさを覚えながらそれに着替え、決意を胸に旅行鞄を手に取る。こんな時間では酒場くらいしか開いていないから、公園か何処かで朝まで時間を潰さないと。
出発準備を終えて部屋を出て、階段を降りて行くと珍しく二階で人の気配がした。こんな夜中でなければ帰宅出来ない程に忙しいお仕事の人なのかと思うと改めて自分の境遇の良さを痛感する。もう二度とこんな高待遇では働けまい。だけどどんな条件であれシリウス公爵家で暮らしていた時よりかはマシなはずだ。
(メンシス様を見付けられたら、そのままクランシェスで仕事を探そうかな)
王都ではどうしたってセレネ公爵家の影に触れる事になる。それならば心機一転、全く知らない土地で頑張ってみるのも楽しいかもしれない。そう考えると少しだけ足が軽くなった気がした。そうでも思わないと、今胸に抱いている恋心に後ろ髪を引かれて、このまま此処で甘えてしまいそうだったからそう思い込もうとしただけかもしれないけど…… 。
玄関から出て、夜空を見上げる。吐き出す息が真っ白だ。こんな時間に外に出るのは年始の時以来だが、あの日よりもずっと寒い。聖女の結界に今尚守られている王都ですらこれなのだ、結界の外側に位置する北部はもっと寒いに決まっている。
(早く見付けないと、いくらメンシス様でも命に関わるわ)
鞄の持ち手を掴む手に力が入った。
「行かないと」
自分に喝を入れるみたいに呟き、石畳の道を歩いて行く。最悪のパターンからは目を逸らし、絶対に彼はまだ生きていると無理矢理にでも信じ込む。高い能力を持った人だし、何よりも私の勘が『彼は生きている』と告げている。この身に宿る魔力のおかげか神力のおかげか、自分の感覚に確信を持って私はシェアハウスの敷地内から出た。
——だがその途端、急に目の前が真っ暗になった。
気が遠くなっていく様な感覚が私に襲い掛かり、体からは力が抜けてそのまま後ろに倒れていく。このままでは頭を打つかもしれない。だが、そう心配する間も無く、ふわりと“何か”に抱き止められた。
「……嬉しいなぁ。真面目な貴女が、“私”恋しさに“僕”との契約を破るだなんて」
あはははは!と大きな笑い声がすぐ側で聞こえたが、意識が薄れていく一方で誰が笑っているのかわからない。言葉の意味もわからず困惑していると、さっき聞いたばかりの言葉の一言一句が記憶の彼方に追い払われて一切思い出せなくなった。
すぐにでもメンシス様を助けに行きたいと心から思うのに、体は言う事を聞いてはくれず、私は意識から完全に切り離されてしまった。