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エリス=シェルフェリアは、ベッドから絨毯へふわり、と降り立った。
小柄な身体はまだ子供のそれ。クリスと同じ色の、腰まで伸びた黒髪はまるで生物のようにしゅるり、と空に弧を描き、優雅にあるべき場所へと収まる。
人形のような、と形容するに相応しい。美しくも儚い少女。
その印象は、今も変わっていない。ただ一点を除いては。
その一点。恐らくは愛くるしいはずだった瞳は――濁った闇が蠢いていた。
「お前は……?」
「妾(わらわ)は真魔。無より出ずる、世界を喰らうもの」
フリッツの問いに、エリスの姿をしたそれは、ニタリと笑って名乗りを上げる。
「人が呼ぶのは闇姫(やみのひめ)。まあ好きに呼ぶがよい」
夢魔の眠りを覚ます方法は、三つある。
一つは、大きな神殿で儀式を行い、魔法を解除すること。
一つは、夢魔を滅ぼし、魔法を無効化すること。
そして最後の一つは――夢魔の魔力を、自らの意志で破ること。
夢魔シウムの眠りを破り、闇姫は今、名乗りを上げ、哄笑する。
それは鈴を転がすように美しいが、確かに地獄から響く声。
聞くだけで、フリッツは肌が粟立つのを感じた。
隠しようもない。そして間違えようもない。
これこそが、真魔。
世界の遥か外側から穿たれた、世界の――敵。
クリスは、アリシアに叱咤されて取り戻したはずの決意が、音もなく崩壊していくのをはっきりと感じていた。
妹の姿をしているそれは、どこまでも禍々しかった。
その瞳に見据えられるだけで、腰が砕けそうになる。
それどころか、同じ空間にいるだけで、逃げだしたくなる。
クリスは、はっきりと理解した。
絶望が形を持つと、こういうものになる、ということを。
背中を向けて、逃げ出したくなる。
「逃げ出したいであろうな。その気持ちはよくわかる。じゃが、この部屋は妾が封じた」
しかし、それすらも許されない。闇姫は怯えるクリスを味わうかのように、ゆっくりと舌で自らの唇をなぞった。
「ここから逃げることは叶わぬ。ここには助けは届かぬ」
ぬらりと光る唇は、幼い外見には不釣り合いに妖艶だった。
それがまた、理解のできない恐怖へとつながる。本人の自覚もないまま、クリスの身体が小刻みに震えだす。
ふとクリスの視界に入ったのは、白い光を残滓のように身体にまとわりつかせたまま、力なく横たわるアリシアだった。あられもない悲鳴が、喉からこぼれそうになる。
闇姫が、愉悦に唇を歪めた。
「えーっと……」
絶望に染まっていく閉じられた世界に割り込んだのは、どこか遠慮がちな、けれど芯はきちんと入った彼の声だった。
「そろそろ、戦わないか?」
ごく自然体で、闇姫に声をかけたのは、彼。
肩までの銀髪に、銀色の瞳。すらりとした長身は、しっかりと筋肉がついている。
そして今はその左手に、金色の棍を持っていた。
棍は、神器と呼ばれる、遥かなる神話の時代に生まれた武器。
世界の理から外れる、世界の敵――真魔を討つための、武器。
「面白いことを言うではないか? 人間風情が」
「別に洒落のつもりはないよ」
嘲笑する闇姫にあくまで真面目に答え、棍を構える彼は、その表情にわずかの恐怖も、浮かべていなかった。
それがクリスには、とても頼もしく見えた。
「ふん」
息を一つつき、闇姫が半身に構える。
それに合わせるように、彼は腰を落とし――そのまま一気に加速した。
絶望の空気を切り裂く、金色の矢となって跳ぶ、彼の名は、フリッツ。
どこまでも強く、夢魔すら制した女性、アリシアが、賞賛する。
三人だけのキャラバンの、荒事担当。
一直線に跳ぶフリッツの出鼻をくじくように、闇姫の前方の空間から黒い錐が現れた。
そのまま、音もなくフリッツに迫るそれを、フリッツは構えをわずかにずらし、棍の先で捉えて霧散させる。
振り払う、といった無駄な動きはしない。速度を落としたりもしない。
そのまま、闇姫に向かって棍を突き出す。
小細工のない一撃は、空気を切り裂き、闇へと迫る。
「速いの」
闇姫はわずかに賞賛を口にして、しかし余裕の笑みを崩さない。
一撃で終わらず、何度も打ち込まれるフリッツの突きをすべて紙一重で避けていく。
「しかしその程度では妾には触れられぬ。所詮はか弱きにんげ……がっ!」
たっぷりと嘲りを口にする闇姫の言葉は、途中で途切れた。
とんでもない速さで、しかし単調な動きの繰り返しをしていたフリッツの棍の軌道が、突然変化した。
突きという、点に向かう動作から、棍の先をはね上げ、闇姫の顎を捉えるという上下線の動作へ。
人間ならばそれだけで顎の骨が砕けかねない、力のこめられた一撃だった。
しかし、闇姫にはわずかに呻きを上げさせただけでしかない。
だが、フリッツにはそれで充分だった。
闇姫の視界が上に逸れたその一瞬。息吹すら残さず、四発の突きを同時に叩き込む。
「…………っ!」
叫びを上げることすら許されず、闇姫の身体が壁に向かって凄まじい勢いで飛んでいく。
それを追うように、フリッツは再び跳ぶ。
だが、追撃を許すほど闇姫は甘くなかった。
「図に乗るでない!」
フリッツの前後に黒い錐が現れ、同時に襲いかかる。
「おおおっ!」
フリッツは気合いの声をあげ、身体をねじりながらそれらを迎え撃つ。
しかし前からの錐は迎撃したものの、背後からの錐はよけきれない。腹部に浅くない傷が入り、ぶしゅり、と血が空中に舞った。
「フリッツ!」
クリスの叫びには答えず、追撃を諦めたフリッツは再び闇姫と対峙する。
「……簡単には、いかないか」
「真魔である妾を、簡単に始末できるなどと、かけらでも考えたやつはお主がはじめてじゃ、多分」
苦笑すら浮かべるフリッツに、闇姫は呆れたような声で応じる。
「それに……お主はまだ本気では来ておらぬ。それでは絶望を喰らうことができん」
闇姫の言葉に、フリッツは嘆息で応じる。
「そんなちびっ子の姿をされているとね。どうしても全力とはいかないさ」
闇姫はその言葉に、笑顔を浮かべた。
「で、あろうな。妾もこのような幼女に宿ったのは初めてゆえ、驚いておる。じゃが本人の絶望がそれだけ深かったということよ。他人からはどれだけ甘えたことであっても、当人にとって、耐えがたい絶望というものは、あるからの」
「どういう、こと?」
無視のできない言葉に、クリスはいまだ焦点がぼやけたままの瞳で、闇姫に問いかけた。
闇姫は、クリスの心を抉るために、簡単に答える。
「妾達真魔は、その絶望に応じて、世界の存在の中に宿る。妾のような人格を持った真魔は、珍しいのじゃぞ? よほど上質の絶望がないと、世界には現れぬのでな」
――どうしようもない真実を、刃として、絶望を育てる。
「母が死に、父は公務に逃避し――そして、何よりも慕っていた姉は、似合いもしない武道に逃げた。それはそれは大層な絶望であったろうよ。それまでが理想の世界であったために、どこにでもある話は、このエリスにとっては、世界のすべてが壊れたに等しかったのであろうな」
ぞぶり、と心に刃が刺さる。傷口から絶望が入り込んでいく。
クリスは声にならない絶叫を上げた。
「クリス!」
慌てて駆け寄ろうとするフリッツを遮るように、黒い錐が眼前を通り過ぎた。
「さて、そろそろ本気を出せるかの?」
「あんた……!」
挑発する闇姫に、フリッツははっきりと怒りを覚えた。
闇姫はその怒気を受けて、むしろ涼しげに眼を細める。
「来るがよい! その怒りを吹き散らせば、さぞや上質の絶望が喰らえるであろうよ!」