一日を巡った太陽が西の果てのねぐらへのそりのそりと帰ろうとする頃、千の丘陵地方の南西、大陸を東西に分かつ横臥の山脈の陰に横たわる森に二人の狩人が潜んでいた。
山を下りた最後の春風が昼間も暗い森をからかうように木々の上を吹き抜ける。いくらか戯れに梢を揺らし、濃く色づいた葉を鳴らしていると、森の中で魔を行っている狩人達に気づき、慌てて西の国々へと去っていった。
狩人達はまさにその風が吹いてきた山を背にし、いくつかのまじないを行っている。風に言の葉を送り、狐の足跡を矢じりで突き刺し、お互いの影を踏まないように気を付ける。夕暮れの迫りつつある森の中を、獲物を狙う狡猾な蛇が這い進むように忍び歩く。
一人は老年の男。苦楽を供にして長らく働いてきた者たちがそうであるように髪は銀に染まっており、その働き者の手には深いしわが刻まれている。しかしその労苦を糧にして鍛えられた肉体は今なお衰えることがない。しっかりした足取りで下草まばらな森を進んでいく。眼光は鷹のごとく鋭利にして、されど獲物を狙う目は梟のごとく透徹であり、ねぐらの森に横たわる影や森より古い闇の向こうを見渡している。
もう一人は娘。老年の男の背に隠れつつも、その齢の乙女にしては逞しい。豊かな髪は星多き夜のようで、時に赤みを帯び、青みを帯び、深く濃い。娘自身もよく知らない異国の組み紐を使って、いくつかの束にし、後ろにまとめている。また知恵ある瞳は老年の男の視線よりも広い視野を持っていた。馴染んだ弓を左手に携え、右手のすらりとした指の一本一本が濡れた土を踏み、そして跡の残らぬように撫でさする。若い豹のようにしなやかな四肢を張り詰めた態勢で保ち、矢をつがえる時を待っていた。
陰気な森をかき分ける男の後ろに控えていた娘は、予感が耳の後ろに触れて、唐突に歩みを止め、顔を上げる。
老いた男はそれに気づかず、静かに素早く先に進む。娘もまたそれに気づかず、今しがた感じた気配を探る。首を回し、視線を方々へ投げかける。不安は感じなかったが、踏みつけた小石のような違和感があった。
娘が男を呼び止めようとした矢先、娘に風が吹きつける。さほど強くはないが暖かく、柔らかく、まるで長く見失っていた母に抱き付く幼子のように、その不思議な風は娘を捕まえ、耳元で何事かを囁いた。春の終わりでなければ、夏の訪れでもない。娘は風の意味の読み取り方を、義母にも義父にもそれぞれに違うやり方で習っていた。しかし今しがたの風は娘の知らないものだった。西方にある遠い異国の香辛料や市場の熱気、娘の見知らぬ荷運びの獣の吐息を運んできたようだった。
娘の空想が大きく翼を広げて舞い上がり、風の吹いてきた西の彼方へと飛んで行く。眼下に広がるまだ青い麦畑を風が波打たせていた。高い壁に囲まれた古い都市の錆びた鐘楼を風が揺らしている。旗をくすぐり、小鳥を冷やかし、すれ違った東風と共に旋風を立たせる。自由な風とは無縁だろう堅牢な砦に遭遇し、娘は森に引き戻された。
深い森だとは言えないが、木々は少し前を進む男の姿を容易に隠すほど密である。今のような風が自然に吹くわけもなく、娘は混乱し、もう一度辺りを見回す。木の葉は揺れているが、それは空気のわずかな揺らぎを意味している。風が吹いた、ということを除けば他には何の不思議も見当たらず、感じ取ることはできなかった。
次に聞こえた風切り音は男の弓が矢を放った音であろうと娘にはすぐわかった。それを聞き取ると娘は我に返り、慌てて男の後を追う。長く狩人としてこの森を駆け巡った娘にしてもなお、男の跡をたどることは容易ならざることであったが、代わりに近づいてくる小さなものの気配を感じた。
飛び出してきたのは後脚に矢の突き刺さった狐だった。娘は慌てて飛びかかり、暴れる狐を押さえつける。爪と牙に痛めつけられながらも短剣を引き抜く。「ごめんね」と呟くと、狐の喉を切り裂いた。
続いて男が戻ってくる。無様に傷だらけの娘に呆れた視線を投げかけていた。
「ごめんなさい。義父さん」と義父よりも早く娘は口を開く。その声は妙なる楽の音のようであり、誰も知らぬ深い森を緩やかに流れる澄み切ったせせらぎのようだった。
義父は何も言わずに狐を受け取り、検める。
申し訳ない気持ちはあったが、娘は今しがたの出来事を話したくて仕方なかった。「不思議な風を感じました。森の木々を蛇みたいにすり抜けて私の顔に掴みかかるように吹きつけたのです。風の気まぐれか妖精の悪戯か、どちらだとも思えません。それは星の少ない夕暮れ時に折々義母さんが唄っていた『冥界の報せ』のようで、私の胸の内をざわめかせたのです」
義父は怪訝な表情を浮かべていたが、娘に戻した視線は穏やかになっている。
「空想ではないのなら」という義父の言葉を娘は首を横に振って遮る。「お前の鋭い感覚は宝だが、己が目を眩ませられるようではいかん」
娘は再び謝り、目を伏せる。あの不思議な風の気配はもうどこにもない。
義父は空を隠す森の天蓋を見上げ、紫に染まりつつある橙の木漏れ日を見て不満げにこぼす。
「まあいい。いずれにせよ、今日はこれで終いだ。あまり良い仕事だったとは言えないな。一日かかずらって狐一匹ではひもじい思いをしそうだ」
義父が森の外へと大股に歩みを進め、娘も足早に後ろをついていく。
「大丈夫です。今年はまだ冬越えの蓄えが残っていますから」娘は手のひらを広げ、「干した豆茸に淡木の実は義父さんの好物ですし、あと古い乾酪を早く食べてしまわなくては。あと、それと……」と数えながら指を畳んでいく。
「豚の燻製もまだあったな」と呟いた義父の声は柔らかく、娘は嬉しそうに頷く。
森を抜け、「はい。それに……」と言いかけて娘は道に降りることなく立ち止まる。「義父さん。丘に行ってきてもいいですか? 義母さんのために」
義父は立ち止まり、しかし振り返らずに、一言を発することもなく頷き、そしてそのまま歩き去った。娘はしばらく義父の背を見つめると、一日を共にした腰の矢筒を外し、弓と共に背負う。太陽は姿を隠してなお、西の空を燃え上がらせている。娘は黄昏に目を細め、森に沿って歩いた。
やがて澄み渡った静謐な夜がウリオの山脈を跨ぎ越え、南の方の湿地から北の荒野までを覆いつくす。狩人に幸と獲物をもたらすという不老の鷹も一番星を食むために、銅色の翼を広げて雲の巣を悠然と飛び立った。夜影に潜む妖精の琥珀のような黄色い眼が森の際を歩く狩人の娘を見つけたが、娘の唄う悪戯除けのまじないを聞くと面食らい、再び森の奥へ静々と帰っていく。
娘は紺碧の夜に目覚める白雪草の丘にやってくる。丁度白雪草の花弁が最も白く色づく時季だった。夏の夜にもかかわらず、風にも雨にも脅かされず地上に舞い降りた新雪に覆われたかのように白雪草の丘は曇りなき白に染まっている。
娘は弓と矢筒を脇に置き、花園に屈む。蜜と草の甘酸っぱくも青臭い細やかな香気が昇り立っていた。
夜の帳に飾り付けられた青白い星の下で、娘は染み一つない純白可憐な小ぶりの花を数本摘む。時に楽しげに『花の守り』を唱え、時におごそかに『薬草唄』を口ずさむ。
すると葉の裏から空想が顔を出し、娘と目が合う。瞬く間に娘の想いは遠い地へと飛んで行き、踏み入った者は多かれど戻ってきた者のいない洞窟に挑む英雄に成った。深く入り組んだ洞窟を進み、古代の呪いを紐解いて、救われることのない憐れな獣を打ち倒し、とうとう太古の王が隠したという財宝の間へと至った。
そうして金銀瑠璃玻璃の財宝に目もくれず、人の世では価値のない幽鬼星の秘密を盗み出すかのように目を凝らし、特別美しい白雪草の花を選び、摘んでは探し、摘んでは歩き、また摘んだ。たまに花の他に、頼りになる薬草も採ってしまう。
娘は気が付くと丘のてっぺんにいた。その視線の先に見知った見飽きぬ風景が広がっている。
丘の狭間に佇むこぢんまりとした丘の間の村はぽつりぽつりと黄色の明かりを灯している。ウリオの山を源とした川のさざ波を漂うように青白い星影が戯れ、大小の丘の間を煌めきと共に流れてゆく。
川の流れゆく先も丘の向こうのことも娘は物語や歌の中でよく知っていた。村を出て隣町にさえ行ったことはないが、夢の中では何度となく遠い国を旅したものだった。雪の上に咲く赤い花を手折り、象牙の都へと駱駝を供に砂漠の旅を行く隊商に出会い、雨の止まない密林に潜む古の魔女と対決したものだった。幼い頃の夢ばかりではない。村で、森で、丘で、川で、どこか遠い場所の息吹を感じて生きてきた。ここは広い世界の一部なのだ、と。
うろ覚えの『感謝の彩り』を丘に送り、弓と矢筒を忘れず拾い、娘はその場を立ち去った。
丘と村落のあわいに寂しげで目に留まりがたい墓場がある。並び立つ墓碑は時代ごとに少しばかり形に違いがあり、しかし共通して死者の名前の下にその人生をなぞらえた歌が記されている。そうする事の意味を知る者は少なくなったが、絶えることなく続けられてきた。
実のところ、娘の住む村そのものよりもウリオの山脈をなぞる森よりも古くからこの地にあった墓場である。古の魔法使いの集落はもはや影も残っていないが、この墓だけは形を変えつつもあり続けたのだった。冥府の使いもこの墓に眠る者を最大限の尊重でもてなすのだが、もはやそれを知る者は墓場を姉妹とする幾重の丘陵か、あるいは古くからの教えを伝える魔法使いに限られている。
昼間にでも香が焚かれたのか、春の終わりの花園のような甘い残り香が娘の鼻と舌を撫でる。娘の義母の墓はあまり大きくないが、石碑に深く刻まれた名前と送りの詩は愛と敬意を宿している。
娘は枯れた花を取り除き、新たな花を捧げる。石碑に付いたわずかな土ぼこりを手で掃くと、娘は跪き、翼持つ人と彫られた刻みに指をあて、その下の歌を心の中で口ずさむ。
好奇心旺盛な小鳥が世界を股にかけて飛び回り、瑠璃の尖塔の切っ先や果ての断崖にそびえる城の露台、無名の英雄たちを称える顔のない銅像の足元を巡り、最後にはまだ若い樫の枝に巣を作る。そんな歌だ。
「今日も花を持ってきました」娘は死者を慰める言葉を述べた後、思い出すようにぽつりぽつりと語る。「歌もまじないもまだ覚え切れていないから、また本を読み返すのですけれど、どうにも上手くいきません。それに義母さんの知っていたまじないの内のほんのわずかでしかないのだと思うととても残念です。そうそう、今日久しぶりに義父さんと狩りに行ったのですが、森で不思議な風を感じました。義母さんに似てふくよかで、でも村の子供みたいにやんちゃな感じのする風です。……泉下に風は吹くのでしょうか。この村の春風のように暖かな風だといいな、と思います。明日は七日旅の最後ですね。安らかにお眠りくださいませ」
一通りの所を言ってしまうと、娘は立ち上がり、そして柔らかな土に抵抗を感じながらも墓場を去った。