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壁に押し付けた右手の甲が
軽く震えていた。
アラインは、左手で時也の手首を逃さず
細い顎先をほんのわずかに傾け──
その吐息が、時也の頬に触れるほどの
至近距離まで顔を寄せる。
「やっぱり⋯⋯見間違いじゃなかった⋯⋯」
その声は、噛み殺すように低く
しかし怒気の熱が乗っていた。
視線は、時也の耳に刺された
小さなピアスに釘付けだ。
桜色の花弁に包まれた、透明な滴──
いや、滴のように見えて
その実、伝説級の〝遺物〟
「億は下らない⋯⋯
いや、もはや〝値段〟なんて
意味を成さないんだぞ、これは!」
怒声を上げたかと思えば
アラインの眼差しは
ぎらつくような苛立ちに染まる。
「千年で〝数粒〟しか存在しない
信仰や神話にすら残されるほどの宝石⋯⋯
それを、だ。
ピアスに!?しかも両耳に!!?」
手首を握る力が、じわりと強くなる。
「歩けば〝宝石泥棒に狙ってください〟って
言ってるようなもんだぞ!!!
そんなもん、身に付けて
街を歩いてんじゃねぇ!!!」
声には呆れと怒りと──
そして、確かな〝羨望〟が滲んでいた。
「それに!あれだぞ!?
ハンターに、アリアがこの街にいるって
看板出してるようなもんだろうが!!
こんなモン、奴らが探してる
遺物そのものなんだから!!!」
時也は、その怒気に僅かに眉を寄せたが
反論することなく、穏やかな声音で応じた。
「いえ、これは⋯⋯
信仰の魔女の転生者の方を探す上で
その方の心の叫びに耐えられるようにと
アリアさんが流してくださったもので──」
「うるっさい!!!」
遮るようにアラインが叫んだ。
表情は既に怒りを超え
焦燥にも似た苛立ちが刻まれている。
「猫といい、キミといい⋯⋯
〝紛失〟と〝損失〟って言葉
知らないわけ!?!?」
バンッ、と掌が壁を叩き、鈍い音が響く。
「ふかふかちゃんの首元に巻かれてる
宝石付き首輪といい
キミのその耳のピアスといい!
ボクの血管がキレそうになるんだよ!!!
見てるだけで
心臓に悪いっつってんの!!!」
アラインの呼吸が荒い。
口調は荒れているのに
その瞳の奥にあるのは
切実な〝実務的焦燥〟
彼にとって――
それは単なる装飾品ではない。
それは〝経営資源〟であり
〝運営資金〟そのもの。
慈善活動だって、表の顔だって
維持には金が要る。
その資金繰りのために
どれほど帳簿を睨んできたか。
何人の人間の口座を凍結し
何度、自分の寿命を削るような
契約書にサインしてきたか。
──それなのに。
そんな財宝を
まるで桜の花一片のように耳に飾り
笑って歩く〝狂信者〟が目の前にいる。
「キミら、揃いも揃ってッッ!!
ああもうッッ!!!」
アラインは
苛立ちを吐き捨てるように、空を仰いだ。
しかし、視線はすぐにまた時也に戻る。
「見てるだけで
ボクのストレスなんだよッ!!
キミを見るたびに
大丈夫かって心臓がギュってなるわ!!
ああああああッ!!もう!!
ほんと無理!!!!」
握った手の力が解け
代わりに額をこつん、と
時也の肩に押し付けて
アラインは深く、深く息を吐いた。
その声は震えていた。
激情の裏に、現実の経済が付き纏う──
それが〝実業家アライン〟の現在だった。
「わ、わかりました!
わかりましたから!!」
両手を上げて時也が必死に言葉を挟んだ。
「転生者の方を見つけ出しましたら
必ず厳重に保管いたしますので!
部屋──じゃなくて、桜の金庫でも!」
「違う!そういう話じゃない!!」
アラインが〝ぐいっ〟と時也の袖を掴んで
両腕をぶんぶんと振り始めた。
着物の端がばさばさと音を立てて揺れ
その隙間からふわりと広がる〝桜の香〟が
アラインの鼻先をくすぐる。
「そもそもね!?
キミ達、金に困ってないから
そんな軽々しく
伝説の遺物を装飾品に使えるんでしょ!?」
「い、いや、それは⋯⋯っ」
「〝それは〟じゃないよ!!
あんな額面の小切手を
ぽんって机の上に置くしさ!
誰も躊躇わないし、確認すらしないし!!」
「〝資金運用〟とか〝原価償却〟とか
〝流動性資産〟の概念が希薄すぎんのよ!!
キミたちの財政はぁぁ!!」
唾が飛びそうな勢いで捲し立てながら
アラインの表情は徐々に
口惜しさと焦りに満ちていく。
「ボクに片耳のやつ一個──
ちょうだいよっっっ!!!」
その言葉は、悲鳴のようですらあった。
眼差しには、真剣な切実さが宿っている。
それは単なる羨望ではない。
〝資産価値〟として
彼は真面目に求めているのだ。
「ねえ、いいじゃん!?
どうせそのうち
アリアの涙でまた生み出されるでしょ!?
ほら、タイミングってのもあるじゃん!!
今必要な奴に回すのが──
〝効率〟ってもんじゃん!?」
「そればかりは──」
時也が、強く、明瞭に言い切った。
ぐいと袖を引き戻すようにして
アラインの手を優しくほどきながら。
「誰を蹴落とす事になっても
譲れませんので!!」
その声音は凛と澄んでいたが
同時に異常なほどの〝執着〟も含まれていた
アラインが思わず息を飲むほどに、真剣で。
「これは、アリアさんが流してくださった
〝奇跡〟です。
僕は⋯⋯誰に盗まれても、手放しても
見失ってもなりません。
僕が〝彼女の傍にある〟という
証でもあるのですから!!」
「⋯⋯ああ、もう
そういうところが
狂ってんのよぉぉおぉぉぉッ!!!!!」
髪をかき毟りながら、アラインは喚いた。
「お前なぁ!!
その宝石、ただの〝硬貨〟に換算したら
国家予算の五年分以上なんだぞ!?
そんなもんを耳につけて
〝愛の証〟とか言って歩いてたら
金の流れを知らない坊ちゃんって
看板ぶら下げてるのと一緒なの!!
経済音痴っていうか──
もう害悪の部類だって
自覚してぇぇえぇぇぇ!!!」
「そこまで言わなくてもっ!?」
「マジでうるさいッッ!!!」
指を指して、アラインはなおも叫ぶ。
「物には〝交換価値〟ってもんがあるの!
例えば、あの宝石一つあれば
孤児院の運営費十年分は確保できるの!!
〝機会損失〟って言葉、知ってるか!?
一度も現金化せずに手元に留めたまま
それが誰の手にも渡らず朽ちていくことを
〝資産の死〟って言うんだよぉぉぉ!!!」
「し、資産の死って⋯⋯
それは、さすがに表現が!」
「こっちは命かけて
帳簿一枚で組織を維持してるんだよ!
同じ組織の人間として
もう少し現実を見てくれ!!
数字は裏切らない
心意気じゃ腹は膨れない
愛や信仰心じゃ電気も点かないの!!!」
「で、でも僕はアリアさんを護るのが
最優先──」
「それが害悪だって言ってんだよ!!!アァァッ!!!」
アラインは壁に突っ伏して
両拳を叩きつけるように音を立てた。
地面が、わずかに揺れた気さえした。
「神を見てる暇があったら
現金の残高見ろやぁぁぁあぁぁぁああああ!!!」
怒りが、焦燥が、哀しみが混じっていた。
──アリアの〝涙の宝石〟
それは、〝狂信者〟には〝奇跡〟であり
〝現実主義者〟には〝救世の札束〟だった
理屈と情念が
交わるはずもなくぶつかり合う。
そして二人の間に残るのは、ただ──
〝絶対に譲れない価値観〟だけだった。