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いつの間にか、寝台の上で身を起こしていたユカリは目を輝かせてソラマリアを見つめていた。菓子を期待している幼子のような眼差しだ。それは一瞬、ソラマリアを霧深い谷間にひっそりと佇む城へと連れ戻す。幼い王女と共に過ごした後ろ暗くも平穏な日々へと。
ようやくたどりついた若き街市は二つの丘を内包する城塞都市だ。戦いの痕を残す厳めしい城壁に反して内で庇護される家並みは争いごととは無縁そうな寛いだ雰囲気を感じさせ、一行の泊まった宿もまた然りだ。初めて訪れた土地の見知らぬ文化を体現した家屋で、しかし知己を歓迎するような風情を感じられた。
じわじわと染み入る涼風から解放され、熱を帯びた足の悲鳴に堪え、皆が倒れ込むように眠りに就いたが、ソラマリアとユカリだけは中々眠れずにいたのだった。比較的疲れを覚えていない二人だ。
ソラマリアにとって夜番は苦ではないが、眠気を押してベルニージュが結界を張った苦労を思うと差し出がましいようにも思われ、代わりに散歩にでも行こうかと考えていた時、ユカリに声を掛けられたのだった。
「良かったら、首席焚書官だった時のこと、聞かせてもらえませんか?」と恐ろしい物語に好奇心を隠せない少女のように。
「構わないが、面白い話などないぞ。ただ密偵のようにライゼン大王国に潜入して、魔導書を探し求めていただけだからな」
「とっても面白そうじゃないですか」ユカリは声を張り上げそうになり、慌てて口を閉じる。
レモニカもベルニージュもグリュエーも寝息さえもほとんど聞こえない。毛布の重みに押し込められるようにして深く暗く温かい眠りに沈んでいた。
ユカリの期待に押され、ソラマリアは焚書官時代に手に入れた魔導書らしきものや王侯貴族から盲者まで誰も彼もが戦の心得を知るライゼン市民の厄介さ、そして焚書機関第五局の部下にして戦友だった焚書官たちについてかいつまんで話をした。どれも古く記憶は朧気だが、懐かしみはあまり感じられない。懐古の念はヴェガネラ妃との日々に掻き消された後なのだった。
「それじゃあただ強いから首席になったってことですか?」とユカリに問われる。
「ああ、そうらしい。私を任命した総長はそのようなことを言っていた」
「じゃあ別になりたくてなったわけでもないんですね」
「そうだ。そもそも来たくてシグニカに来たわけでもないしな」
「あ! ……すみません」目に見えてユカリの表情から輝きが消える。「どうして私ってこう失言が多いんだろう」
「いや、私も気にしていないから気にするな。それもある意味、私を想ってくれていた父母や妹に薄情かもしれないが……、待遇が良かったせいかな、恨みのような個人的な感情は持ってないんだ。それはそれとして機構の悪辣な活動を許すつもりはないが」
そうして緞帳が舞台と客席を分けたかのように会話がぷつりと途絶えた。ユカリが眠りに就いたからだとソラマリアが気づいたのはその少し後のことだった。しかしソラマリアの方にはまるで眠りが訪れる気配はない。毛布に包まり、瞼を閉ざし、部屋のどこかで様子を窺っているのかもしれない《眠り》のために心静かにその時を待つが、頭の中は透徹なままただ夜の寂しさを感じるだけだった。
やはり散歩にでも行こうと決め、影のように静かに寝台を降り、霊のように足音も無く部屋を出る。星明かりさえも締め出した深い夜の真っ暗な宿は海の底のように静まり返り、身動きする者はほとんどいない。いたとしても見えないくらい黒く塗りつぶされている。しかし実際にソラマリア以外にもう一人いた。
近くて遠い廊下の向こう、階段を降りる足音と床板の軋む音が陛の下へ降りる王の歩みのように重々しく聞こえる。ほとんど何も見えない廊下だが、その妙に響く音のお陰で階段の方向を判別できた。
ソラマリアは付き従う家臣の如くそっと廊下を通り抜け、刺客の如く階段の上から見下ろした時、その何者かは宿の玄関扉を開いた。その時のことだ。差し込む月光の中、その者は何かを落とした。静寂を抱く帳を切り裂くような甲高い硬質な音を辺りに響かせた、それは焚書官の鉄仮面だった。
鉄仮面を持つその人物は――どうやら女だ――、飾り気のない格好で大きな布に包まれた大荷物を背負って、街を貫く街道ではなく、むしろそこから離れるようにして密集した家々の間の路地を進んでいく。こんな時間に何の用事があるというのだろう。我々を狙って近づいて来たのではないのか、疑念を抱き、解き明かすために後を追う。
普段は衣嚢の底の埃ほどに好奇心など持ち合わせていないソラマリアだが、焚書官の謎の行動については知るべき由がある。ユカリは魔導書の気配を感じていないが、だからこそあの宿に居合わせたことが偶然とも思えなかった。
「ねえ、一体何の用?」予兆なく女は振り返り、ソラマリアを咎める。「用があるなら声をかけて、ないならどこかへ失せて」
その顔は古馴染みだった。かつての部下だ。顔も名前もよく覚えていた。しかし少なくとも相手はソラマリアをそうは思っていないかのような、まるで初対面かのような口ぶりだ。抜き身の短剣のような敵愾心は感じるが、それは魔法少女一行に対するものではなく、自身を尾行する不審人物に対してのようだった。ソラマリアは相手に合わせて知ったかぶりする。
「いや、すまない。散歩に出たらたまたま見かけてな。こんな時間に何だろう、と。そうだな、好奇心が湧いたのだ」
「ふーん」女はソラマリアの顔を見つめ、次いで腰の剣に目を落とす。「知りたいの? 私がどこへ行こうとしているのか、何をしようとしているのか」
「いや、ああ、まあ、そうだな」
「はっきりしないわね。でも邪魔しないならついて来てもいいわ」
「荷物を持とうか?」
「邪魔するならついて来ないで」
「そういうつもりでは……、いや、分かった」
ソラマリアは言う通りにした。大切なのだろう荷物を背負う女の背中を追う。
二人はアイモールの街の内包する丘の一つを登り、寝息も立てずに眠る街を見渡せる頂まで昇る。皓々たる月と粛々たる星々の下、女は荷物の中から取り出した機材を組み立て始めた。するとソラマリアにもすぐに目星が付く。長い筒に幾枚かの透鏡、三脚。
「天体観測か?」
「ええ。好奇心はまだ熱を持っているかしら?」
「ああ、もちろん」ソラマリアは広げられた様々な道具の中に鉄仮面を見つけ、頷く。「何か手伝うことは……、いや、何でもない」
「何もないわ。少し待っていてね」
女は望遠鏡を覗き込み、透き通った秋の空気の向こうで合唱するように瞬く星々と対峙する。主にイーヴズ連山の頭上を煌びやかに飾る北西の星空を観測し、何やら記録を取っているようだった。望遠鏡を覗き込んでは羊皮紙に何事かを書きつけている。
「天文学者か何かなのか? あるいは星占い」
「どちらかと言えば前者ね。星占いもできるけど、専門外。貴女は星に興味あるの?」
「いや、特には。星にまつわる神話についてはいくらか知っているが」
ライゼンの神話をレモニカに教えるために学んだのだった。個人的な興味はなかった。
「神話ね。そっちはあまり詳しくないわ。私はただ探しているだけ」
「……新しい星をか? 肉眼では見えない星があると聞いたことはあるが」
「いいえ」女は記録を書きつけ、たっぷりと他の記録と見比べると羊皮紙を懐に片付けた。そしてちらりとソラマリアに視線を投げかける。「故郷を探しているの」
その言葉の意味を理解するのには少し時間がかかった。否、本当の意味で理解したとは言い難い。
「星占いは専門外じゃなかったのか?」
女はたまらず笑い出す。「たしかに。そういう解釈もできるわね。でも、そうじゃなくて、私は星の世界に故郷を探しているの」
ソラマリアもまた故郷のことはほとんど覚えていない。迷宮都市ワーズメーズだということは知っているが、何の実感もない。だからといって己の故郷が星の世界にあるかもしれない、なとど思いはしないが。
「その、星の世界というのは……。探しているということは、つまり……。何か覚えていることはあるのか?」
「いいえ、何も。でも観る限りの地上のどこにもなかったのよ」
だからといって、星の世界を探すのは早計ではないだろうか、と言いかけたその時、丘の上に悪戯な風が吹き込み、二人の女を揶揄うと再び丘を降りて行った。ソラマリアは女の弄ばれた髪の間に、細いうなじに花の形の封印を見つける。星把機械を持つ竜の落とし子が描かれていた。
見間違いかもしれない、と思ったのはユカリへの信頼からだ。ソラマリアの知る限り、魔導書の気配に関して今までに一度もユカリに間違いはなかった。その能力自体の精度にはむらがあるが、それを踏まえた上での矛盾はなかった。
封印の魔導書は感知範囲内に限り、距離、方向から位置を特定できる。ただし複数存在した場合は各魔導書の位置が曖昧になる。そしてユカリが眠っていたとしても目覚めるほどのはっきりとした気配だ。そう聞いている。
見逃されるはずがない。同じ宿にいたのだ。しかしだからといってソラマリアも見逃すつもりはない。
「ソラマリアはどれくらい覚えているの? 故郷のこと、ワーズメーズのこと」
「いや、私もほとんど何も。……待て、まだ名乗っていないだろう、お互いに。それにワーズメーズのことも。何故知っている?」
「この人が知っていたわ」と女は自分の顔を指さす。「まあ、私も名前くらいは聞いていたけど。それにしてもこんな所で鉢合わせるなんて、星の巡りが悪いわ」
「我々を狙ってやって来たわけじゃないのか?」
「ええ、私は解放されたの。魔法少女かわる者に。晴れて自由の身ってわけ。貴女とは違ってね」女は皮肉っぽい笑みを浮かべている。
「別に私は支配などされていない」
「そうね。何より貴女自身が貴女を支配できていない。攫われてきた女の子。言われるがままに学び、倣い、鍛え、働き。変わったのは主だけ。聖女、王妃、王女」唖然とするソラマリアに女は微笑みかける。「舳先にちょこんと座っているだけなのに、舵を取っている気分の女の子よね」
「何故、お前が、そんなことを……」
「知っているのか? 観たのよ。すごいでしょ? そんな私でも見つけられないのが、私の由来、起源、原点。私の故郷。私も貴女と似たようなものだったわ。でも、今は違う。私は私が何をすべきかを知っている。ねえ、魔導書ってどこから来たんだと思う?」
「……どこから? それは、誰かが作ったのだろう」と答えて、そんな問答をする必要などないことにソラマリアは気づく。「とにかく、回収させてもらうぞ」
「待ってよ。見逃して」途端に女は及び腰になる。「この人なら解放するし、知っていることも知りたいだろうことも何でも話す。セラセレアのこと、知りたくない? 彼女は今魔法少女狩猟団の中でも独自に動いているんだけど――」
「いずれにせよ、お前に命令すれば聞き出せる」
女の表情が消える。怒りも悲しみもない。死者でさえぞっとする真の無表情で、ソラマリアを見つめる。
「あれ? 誰かと思えばソラマリアさん?」と唐突に現れたのはユカリだった。「どうかしたんですか? こんな夜更けに」
癖なのかどうか、ソラマリアも知らないが、ユカリの足音はごく小さく、気配も薄い。尾行などしていない普段からそうなので、いつからかそこにいたのか、今やって来たのか、ソラマリアには分からない。
「散歩だ。たまたま、この……」そこまで言って、ソラマリアはユカリが魔導書に気づいていないことに気づく。「ユカリこそどうしたんだ?」
ソラマリアはあらゆる可能性を思い浮かべたが、目の前にいる見知った少女がユカリではない可能性だけは早めに潰しておかなくてはならない。
「なんだかおかしいんです。ずっと誰かに見られているような、そんな感じで落ち着かなくて」
「魔導書の気配とは、違うのか?」
「いえ、魔導書の気配とは……、あれ? ……あれ? 嘘。何で?」
ユカリは追い詰められた者のように視線を惑わせ、両手を見つめ、その両手で頬に触れ、額を拭う。まるで母を見失った幼子のように、何かを探すように辺りに視線を投げかける。不安と絶望が綯い交ぜになった表情は誰にでも見て取れた。
「落ち着けユカリ。どうしたんだ?」
「魔導書が、魔導書の気配が、気配を、感じないんです。ここにあるのに、宿にも、ソラマリアさんも持ってますよね? 何で? どうして?」
「落ち着け、ユカリ。悪いが先に宿に戻っていてくれ。そしてベルニージュを叩き起こせ。悪意ある魔法の他には考えられないだろう?」
ユカリは反射的に頷き、納得して頷き、問いへの答えとして頷いた。
「そ、そうですね。ソラマリアさんは? その人は?」
「私もすぐに行く。さあ、急げ」
詳しく聞きたがっている様子を見せつつもユカリは丘を駆け下りて行く。
「何故ユカリが魔導書の気配を感じなくなったのか分かるか?」ソラマリアは期待せずに使い魔に尋ねる。
「そもそもなぜ気配を感じ取れるのかすら分からないわ」と女は正直に答える。
「何でも分かるわけじゃないものな。故郷も見つけられないでいるのだから」
「ねえ、お願いだから――」
「我々に期待するな。魔導書は回収する。是が非でも」
と、言い含めておかなければ、この使い魔はユカリにも自由を求めて訴えるだろう。あるいはユカリからならば同情を買えるかもしれない。ソラマリアはそう考え、そして目の前の使い魔がそう考えないように、釘を刺すことにしたのだった。
ソラマリアが近づき、その細首に手を伸ばすも女は抵抗しなかった。戦えるような魔術も持ち合わせていないのだろう。
使い魔は憎々しげに言葉を紡ぐ。「娘の呪いを解いたところで、ヴェガネラ王妃が――」