コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
午後九時。私はBar『Queen or Joker』にいた。
ここは百合さんが一人で飲みたい時に来る店で、侑にも教えていないらしい。口止めされたわけではないけれど、侑だけでなく、誰にもこの店のことは話していない。
「久しぶりね、二人で飲むの」と、百合さんがブラック・ベルベットにグラスを傾けた。
「百合さん、最近忙しそうだったから」と私はチャイナブルーのグラスを百合さんのグラスに重ねた。
「お互い様でしょ?」
私たちはそれぞれのグラスの味を楽しみ、カウンターに置いた。オーナーが生ハムサラダとナッツ、ベーコンと野菜のグリル、チョコレートの皿を次々と並べた。
「チョコレートはサービスね。頂き物なんだけど」とオーナーが笑った。
オーナーは百合さんの幼馴染で、いわゆる『オネェ』だ。彫の深い顔立ちと百九十センチを越える長身、筋肉質な身体で、希望がないと知っていてもオーナーに会いたくて店に通う女性客が多い。
百合さんはオーナーにお礼を言うと、サラダを取り分けてくれた。私はチョコレートを一粒口に入れた。
「美味しい!」と私はオーナーに言った。
「良かった。ゆっくりして行ってね」
オーナーは女性客に呼ばれてカウンターを出て行った。大学生にも見える若い女性二人が、オーナーにお勧めのカクテルを聞いている。
「今日、彼氏はいいの?」
百合さんが言った。
「やっぱり知ってたんですね。……てことは、和泉社長も知ってます?」
「知ってる」
「百合さんが?」
「どっかのブラコンがね」
「そうですか……」
築島和泉がブラコン?
蒼にグループを継ぐ意思があるかを確かめるために、監視してるだけじゃなくて?
同じように充社長のことも監視してる?
「聞きたいこと、あるんでしょう?」
私の頭の中を見透かしたように、百合さんが言った。
「百合さん、侑と結婚しないんですか?」
「あら、そっち?」
私はわざと、挑発するような笑みを作った。チャイナブルーのお代わりを注文する。度数が低く、さっぱりとした口当たりが好きで、よく飲む。
百合さんももう一度ブラック・ベルベットを注文する。
「結婚ねぇ……」
「興味ないんですか?」
「咲くらいの年の頃は『ない』って即答したんだけどね」
珍しく、百合さんが曖昧な返事をした。
「今は?」
「今はねぇ……」と、百合さんがグラスを揺らした。
「私ね、去年の健康診断で婦人科の疾患が見つかったの」
「え……?」
「今は薬を飲んでるんだけど、妊娠を望むかによって治療法が変わるから、四十歳を目処に方向性を決めた方がいいって言われちゃったのよ」
百合さんが悩む表情を、初めて見た。
「子供が欲しいと思っていたわけじゃないけど、産めないとなると……」
私の知っている新条百合は、いつも自信に満ちていて、強い意志を持っている女性だ。私は百合さんに憧れて、彼女の下で働きたいと望んだ。
「それ、侑には?」
「言ってない」
「どうして?」
「侑が知ったら、きっと結婚して子供を作ろうって言うから……」と、百合さんは少し寂しそうに言った。
「侑が結婚を望んでいるとしても、子供を望んでいるとしても、それは今じゃないかもしれない。侑には侑のライフプランがあるのに、私のリミットのせいでそれを狂わせるのは違うと思うの。最悪、結婚も子供も望んでいないのに、私のために――」
「侑はそんな半端な男じゃないでしょう?」
初めて聞く百合さんのネガティブな考えを遮って、私は言った。
「たとえ百合さんが病気だとしても、侑は結婚する気がないならそう言うと思う。間違っても望んでないのに子供を作ったりはしない」
「そう……ね」
「だけど、もし侑が百合さんとの結婚を望んでいて、いつか子供が欲しいと思っているなら、それが数年早まることを迷ったりしないと思う」
百合さんが、少し驚いた表情で私を見た。
「大体、四十が近い年上の女と付き合っていて結婚も子供も望んでないなら、とっくにはっきり言ってるはずでしょ? 百合さんが四十過ぎてからそんなことを言いだすような、そんな詐欺みたいなこと、侑はしない!」
「咲、どうして泣いてるの?」
百合さんに言われて、私は自分の瞳が濡れていることに気が付いた。慌てて、おしぼりで涙を拭う。
「百合さんが……らしくないことで悩んでるから――」
「らしくない……か」
「らしくないです! 百合さんなら、『今すぐ結婚しないなら、別れる』くらい言いそうなのに……」
「私って、そんなに傲慢な女に見える?」と、百合さんは笑った。
「違う……。それくらいの百合さんの我儘を笑って受け入れるくらいの愛情っていうか、度量が侑にはあるってことです。それに、百合さんが言ったんですよ? 『侑が病気を知ったら、きっと結婚して子供を作ろうって言う』って。それって、侑が百合さんとの結婚や子供について考えてるって、百合さんもわかってるってことでしょう?」
夢中で話しているうちに、自分で何を言っているのかわからなくなってきた。
とにかく、百合さんが悩む姿を見たくなかった。
「百合さんだって、悩むってことは、侑と結婚したいって、侑の子供が欲しいって思ってるんでしょう? 思ってないなら、病気のことも治療方針も迷いなく報告できるはずだもの」
百合さんは侑に結婚や子供を拒絶されるのが怖いんだ――。
「咲の言う通りよ」
私は百合さんが差し出したティッシュを受け取って、豪快に鼻をかんだ。
「私ね、一年くらい前に新築のマンションを買おうとしたの。都心の2ⅬⅮKで五千万」
「マンション?」
「そ。でも、侑が反対したの。『十年先の百合の生活に、俺が一緒にいる可能性が少しでもあるなら、今はやめて欲しい』って言われた」
「それって……」
侑は、十年先も百合さんと一緒にいたいってことだよね?
「結局、その物件は条件が揃わなくてやめたから、侑の言葉を深く考えることもしなかった。けど、病気が見つかって、あの時の侑の言葉を思い出したの」
私は突然、本当に突然冷静になった。
「あの……百合さん。確認なんですけど……、百合さんが悩んでるのは、病気を知った侑との未来、ですよね?」
「え?」
「いえ、侑以外の男と結婚して子供を作るって選択肢はないですよ……ね?」
私の言う『侑以外の男』が和泉社長を指していると、百合さんはすぐに気が付いたようだった。
「実は、その『侑以外の男』にプロポーズされたの」
「ええっ――!」
和泉社長が百合さんにプロポーズ⁈
「即答で断ったけど」
即答――。
私はほんの一瞬だけ、和泉社長が可哀想に思えた。
「その時、思ったの。病気のことを抜きにしても、私が結婚を考えられる相手は侑だけだって」
「もう……ベタ惚れじゃないですか」と、苦笑いをした。
「そうね」と、百合さんは爽やかに微笑んだ。
「何を悩むんですか。とっとと結婚しちゃえばいいのに」
「結婚を考えるなら相手は侑、ってだけで、私が結婚を望んでるのかはまた話は別なのよ」
百合さんの、歯切れのよい、いつもの口調が戻っていた。
私と百合さんはグラスを飲み干して、次の注文をした。私はカルーアミルク、百合さんはブラックルシアン。どちらもコーヒーテイストだ。
私はフォークで生ハムを刺した。
「で? プロポーズを断った罪滅ぼしに、元カレにグループの時期会長の椅子を用意してあげようと思ったんですか?」
思いがけない百合さんの悩みに感情を高ぶらせてしまった私は、空腹感を覚えた。サラダの次はベーコンと野菜のグリルを頬張る。
「私ってそんな情け深い女に見える?」
「いいえ? 見返りに空いた社長の椅子でも欲しいのかと」
「それ、いいわね。女社長」
オーナーが私たちグラスを入れ替えてくれた。私はお勧めのパスタを注文した。残っていたチョコレートを舌の上にのせる。
「本当のところは?」
「咲の見立ては?」
「和泉社長はこの事件を、蒼に解決させたいんじゃないんですか?」
正直、この店に来るまで、百合さんを信じきれずにいた。
百合さんは私が尊敬する上司で、憧れの女性。けれど、百合さんと和泉社長が過去に恋人であった事実がある以上、百合さんが間違いを犯さない確証はない。だから、私はあえて侑の話を持ち出した。
侑を裏切って和泉社長と結託しているのなら、百合さんと話すことはない。けれど、百合さんの侑への気持ちを聞いて、私は全面的に百合さんを信じると決めた。
「そして、百合さんは私に解決させたい」
「どうしてそう思うの?」
そう言った百合さんの嬉しそうな表情が、私の考えが当たりだと物語っていた。
「回りくどいんですよ。清水の犯罪をもみ消したいなら、和泉社長が蒼を本社に移動させる必要はないでしょう? 百合さんに清水のPCのデータと経理のデータをいじらせればいい。それなのに、清水の不正は明るみに出た」
私はカルーアミルクを一口飲んだ。
「ここからは推測ですけど、清水の犯行から自分に疑いの目が向けられることを恐れた川原に、告発者である真と私の関係を匂わせて動かした。川原の身辺を探る私に、充社長を調べさせて二人を繋げた。当然、私は清水の頭脳が川原で、川原のバックにいるのは充社長だと仮定して、証拠を掴むために川原に揺さぶりをかけた。けれど、焦った川原が接触したのは充社長ではなく和泉社長だった」
「つまり?」
「川原のバックにいるが和泉社長なら、これまでの行動が矛盾しすぎていて、仮説も何も成立しない。けど、川原のバックにいる人間を暴くために川原に近づいたんだとしたら、まだ納得できる。ただ、和泉社長が自ら川原に接触した場合、それ自体が弱みになる可能性があり、絶対的な証拠を掴めない限り、むしろ川原の共犯として窮地に立つ恐れがある。充社長をスケープゴートにする以上、真相を暴く人間を別に用意しなければならない。そして、それは自分や充社長と同等の立場の人間でなくてはならない」
「それが、築島蒼」と百合さんが言った。
「そして、和泉社長に百合さんという協力者がいるように、蒼にも協力者が必要だと考えた」
「それが、成瀬咲」
「でしょう?」
「筋は通ってるわね」
百合さんはブラックルシアンを味わって、グラスを置いた。
「けど、そうなると私が和泉に協力する理由は? まさか、本当にプロポーズを断った罪滅ぼしとか、和泉を会長にしてフィナンシャルの社長を狙ってるとでも?」
「それを聞きたいんです」
「憶測は?」
百合さんはフォークでパスタをくるくると巻く。オーナーのお勧めはペペロンチーノ。
「そうですね……。T&Nでの最後の仕事として、ゲームを楽しんでる――とか?」
「そうだとしたら、あなたは私をどう説得する?」
百合さんが楽しそうに言った。
「私のゲームに鞍替えしませんか?」
「メリットは?」
「和泉社長のシナリオより楽しめるのは証明済みでしょう? おまけに成功報酬として女社長の椅子を用意します」
「おまけが社長の椅子?」
交渉は弱気になった方が負け、だと百合さんから教わった。
私は精いっぱい余裕の笑みを繕って、百合さんの目を真っ直ぐ見据えた。
「ええ。まずはゲームに勝利することを目指して楽しみましょう」
百合さんはグラスを傾けた。
「私たちの勝利に」
私は百合さんのグラスに自分のグラスを重ね、ゲームスタートのゴングを響かせた。