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札幌から帰った翌日から、俺と咲のすれ違いの日々が始まった。
庶務課ではこれまで通り上司と部下として顔を合わせているが、退社後の咲は極秘戦略課の仕事に追われているようで、無理をしても俺との時間を作れるような状況ではなかった。
侑に仕事を任せっきりだった咲は、一週間分の報告を受ける場に、俺を立ち入らせなかった。
『私は犯罪者よ』
会えない時間が長引くほど、東京に帰る飛行機の中で言った咲の言葉に不安が募った。
咲は俺との未来など考えていないのだろう。
その証拠に、咲は札幌から帰ってから一度も指輪をはめていない。
ったく……、せめて虫よけとしてでもはめてくれていればいいものを――。
咲と会えない数日間、毎晩一人のベッドで思い出すのは札幌の夜だった。目を閉じると、咲の肌の柔らかさや、唇の感触、甘く高い声が鮮明によみがえる。
咲は一人の夜に、俺を思い出すのだろうか……。
いや、仕事モードの咲は『睡眠も仕事のうち』とか割り切ってそうだな。
俺は、ふっと顔がにやけた。
咲の誕生日から二週間。
俺は真さんと『High & Low』にいた。
清水の横領に関する経理課データの精査を終えたものの、処分に値する人間が多すぎて、社内は静かに混乱を続けていた。依然として経理課長の後任は決まっておらず、真さんは課長兼任で忙しそうだった。
兄たちの潔白を証明するために事件の真相を暴く、と決めてから一か月。
すっかり蚊帳の外が定位置になったことに、俺は苛立ちを通り越して怒っていた。
「真さんは状況を把握してるんですか?」
後で侑も合流することになっているが、ひとまず俺と真さんはグラスを軽く鳴らして、最初の一杯を飲み干した。
「いや? しばらく咲と連絡とってない」
「大丈夫なんですか?」
「庶務でのあいつを見る限り、大丈夫だろ」
意外だった。
真さんはいつも誰よりも咲の近くにいるのだと思っていた。
俺の考えがわかったのか、真さんはビールの他に何品かを注文してから話し始めた。
「俺はね、咲に助けを求められたらどんなことをしても助けるけど、求められないなら咲の領域に踏み込まないって決めてるんだよ。そこまでの過保護は、咲も望んでないしな」
「咲が暴走することはないんですか?」
「ある!」と、真さんは自信満々に言った。
「いや、そんなどや顔で言われても……」
「その時はその時だ」
真さんが注文したチーズやソーセージのアラカルトがカウンターに並ぶ。
「そうなる前に止めてやらないんですか?」
「止められてやめると思うか?」と言って、真さんは生ハムに包まれたチーズを頬張る。
「そうですけど……」
侑がため息交じりで店に入ってきた。
「お疲れ」と声をかけると、侑は自分のビールが届くのを待ちきれず、俺のグラスを飲み干した。
「マジで疲れた」と言いながら、侑はソーセージを口に放り込んだ。
「場所を変えようか」
真さんはバーテンダーに奥の個室が空いているか聞いて、立ち上がった。俺と侑も続いて移動する。料理を運び終えたバーテンダーに礼を言って、追加のビールを注文した。
「咲と一緒だったのか?」
真さんが聞いた。
「いや、一週間くらい前から別」
「別?」
「ああ。咲は百合と組み始めた。で、俺は百合の代わりに情報システム部の管理を任された」
侑は前髪をかき上げて、苦い顔をした。
「百合さんと?」
「いつの間にそんなことになったんだよ」
「知らねぇよ」と、侑は投げやりな言い方をした。
「とにかく二人で何か企んでる。俺も清水の共犯者探しが大詰めで忙しくて、二人が何をしているのか探れない」
「蒼は咲から何か聞いてないのか?」
真さんに聞かれて、俺は不機嫌な表情を隠さなかった。
「聞いてませんよ。プライベートでは二週間会ってませんから」
「え……、マジで?」
真さんと侑が俺を見た。
明らかに俺を可哀想だと思っている。
「マジで! 二週間放置!! だから、二人に最近の咲の様子を聞きたかったんだよ」
「残念だったな。俺も何も聞いてない」と真さんが憐れむような目で俺を見た。
「あの二人……何を企んでるんだ?」
「さぁ……。正直知るのも怖いな」
「そんなにヤバいのか?」と、俺が聞いた。
俺はまだ新条百合に会ったことがない。
ただ、和泉兄さんの元恋人で、侑が一緒にいるために結婚してもいいと思うほどいい女で、咲を今の仕事にスカウトした出来る女と聞いただけで、怖気づく。
「お前、覚えてないか? 三年前にT&Nの全システムがダウンしたろ。外部からのクラッキングだと大騒ぎになって、会長が警察の介入を決めた直後に、全システムが復旧した」
「ああ。社員には緊急時の対策訓練って通達があった」
バーテンダーがビールとピザ、ナッツの盛り合わせを運んできた。店に来た時に、侑が注文したものだ。
侑が飲み干す勢いでグラスを傾けた。
俺はビールを三つ追加した。
「ここだけの話だけど、あれの仕掛人は百合と咲だった」
「は?」
「当時、人材の引き抜きや新商品の情報漏洩が続いて、社内に敵対企業のスパイがいる疑いがあった。百合と咲は極秘戦略課を立て上げる布石としてスパイ探しをした。で、グループのネットワークでワームが繁殖して情報を外部に流してるとわかったんだ。百合と咲はグループのシステムをダウンさせることでワームの駆除をして、スパイをあぶりだそうとした。結果、計画は成功し、スパイの雇い主から損失分を回収までした」
気が付くと、俺はグラスに手をかけたまま話に聞き入っていた。ぬるくなったビールを飲み干して、水滴で濡れた手をおしぼりで拭く。
ドアをノックして、バーテンダーがビールグラスを三つ持って入ってきた。テーブルに冷えたグラスを置いて、空のグラスを持って出て行く。
俺たちは、まずは一口喉に流した。
「しかも、システムダウンに乗じて実際に緊急時の危機管理対策まで構築してたよ。お陰で、一部のマスコミでシステムの管理能力について叩かれた時も、難なく対応できた」
真さんは知っていたようで、侑の話に相槌を打って聞いていた。
「でも、そんな大それたことをやってのけたのに、社内で噂にもならないっておかしくないか?」
「二人とも表舞台に出るのを嫌がったし、作戦が二人の独断で行われたことが問題にもなって、『会社が計画的に行った訓練』として公表することで、二人はお咎めなしになったんだ。もっとも、上層部は咲の存在自体知らなかったらしいけど」
「昔から無茶苦茶してたんだな……」と、俺は呟いてビールを飲んだ。
「作戦が成功して、極秘戦略課が誕生した。で、咲は庶務課に潜入したってわけだ」
「ずっと不思議だったんだけど、どうして咲は庶務課に?」
ずっと疑問に思いながら、なぜか聞き逃していた。
「ああ。そもそも三年前の対策訓練って名目のスパイ探しの時、『社内にスパイがいる』って情報は、本社の噂話だったんだよ。ワームの存在を気付かせたのも、本社の社員がネットワークに接続時の歪みについて話しているのを数回耳にしたって人の、他愛のない世間話がきっかけだった。それで、咲が自ら情報収集に乗り出したんだ」
「本社の情報源は真さん?」と聞きながら、俺は真さんを見た。
「いや、俺は裏付けを手伝っただけ」
「じゃあ……」
「ま、それはいずれ咲に聞けよ」
真さんはスマホをいじりながら言った。
「とにかく、だ。それだけのことをたった二人で完璧に、しかも半ばゲーム感覚でやってのけたんだ。もう俺たちの出る幕はないかもな」
侑が冷めかけたピザを頬張った。
「いじけるな。これだけ関わった俺たちを蔑ろにはしないよ。今は知る必要がないってことだろ」
「はぁぁぁ……。咲といい、百合といい、どうして俺の周りには頭が良過ぎて気の強い女ばっか――」と侑が深いため息をつく。
「お前の好みの問題だろ」と、真さんが笑った。
「昔はもっと大人しいタイプの女を連れてたよな?」と言いながら、俺は思い出していた。
学生時代、侑が付き合っていた女はほとんどが年下のお嬢様タイプだった。それが、今は十歳近くも年上の美人で? 気の強いキレ者。
「そうなんだ? 従順な女じゃ物足りなくなったか?」
「蒼だって同じだろ。年上の時も、そうは見えないタイプばっかで、咲みたいにキレッきれの女は初めてじゃないのか?」
「ああ……、そういうことか」と俺は納得した。
「俺とお前は女の好みが似てるんだな。だから、お前は百合さんと知り合わなきゃ咲に惚れてたと感じたし、俺が咲を気に入るって分かったんだ」
「へぇ……、そうなんだ?」
突然、この場にはいないはずの、聞き慣れた声が聞こえて、俺たち三人は振り向いた。
「咲?」
咲がドアの前で腕を組んで立っていた。
ボーイズトークに夢中で、部屋のドアが開いたことに気が付かなかった。
「なんで……」