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第76話 答えのない祭壇
縫季は廊下に立ち、己の手を見た。
香を読もうとした。
読める。だが――
(……薄い)
いつもなら指先まで流れ込んでくる記録の層が、今朝は遠い。霧の向こうにあるような、掴みきれない感触。
気のせいかもしれない。あるいは――気のせいではないかもしれない。
縫季は手を下ろした。
◆
声が聞こえた。
廊下の奥、政務の間の方角から。
「なぜ出自も知れぬ者を重用するのか」
重臣の声だった。低く、押し殺している。だが怒りが、滲んでいる。
「能があるからだ」
帝辛の声は静かだった。
「血の正統を蔑ろにするおつもりか。先王より続く家臣を差し置いて――」
「正統が能を保証するなら、この国はとうに傾いていない」
一刀だった。怒っていない。感情がない。
ただ――揺れない。
重臣の足音が、廊下を遠ざかっていく。
縫季は壁際に立ったまま、動かなかった。
帝辛が扉の前に一人、立っている。
その背中が――静かだった。
孤独だ、とは違う。承知している、という静けさだった。
血を切り捨てることの代償を。正しい選択が何を失わせるかを。全部知った上で、揺れない。
(……この線でも、孤立していく)
縫季の胸が、静かに軋んだ。
固定点は変わらない。殷は滅びる。
でもこの帝辛は――信じたものを抱えたまま、滅びる。
帝辛が振り返った。
縫季と目が合う。
一拍の沈黙。
帝辛は何も言わなかった。
ただ、わずかに口元を動かした。
「……聞いていたか」
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
帝辛は踵を返し、政務の間へ入っていった。
扉が、静かに閉まる。
◆
宮の外れに、小さな祭壇があった。
縫季が足を向けると、灰の巫――玄誓が立っていた。
祭壇の前。白煙が細く上っている。静かな所作で、祈祷が始まる。
縫季は少し離れた場所から、それを見た。
別の線では――ここで天界が動く。
白い光が降り、使者の声が祭壇に触れる。
神話の固定された線では、天と地が繋がる瞬間がある。
だが。
煙は、ただ上るだけだった。
応えがない。
空は青く、高い。何も降りてこない。
玄誓は動じなかった。
最後まで祈祷を続け、静かに立ち上がった。
縫季と目が合う。
玄誓は何も言わなかった。
ただ――わずかに目を細めた。
透灰の瞳が、縫季を一瞬だけ見た。
それから、祭壇の煙へ視線を戻す。
(……天界が、薄い)
縫季は理解した。
この線には、神話が成立していない。
悪王の伝承が固定されていない。九尾の物語が、根を張っていない。
だから――天界の干渉経路が細い。
帝辛が血縁を切り捨てた。
天界の声も、届かない。
上からも、横からも。
この帝辛は――一人で立っている。
(それが、この線の帝辛だ)
縫季は祭壇の煙を見た。
応えのない空へ、細く上り続ける煙。
玄誓がぽつりと言った。
「……静かな線だ」
「……ああ」
「静かなのに」
一拍。
「滅びは、来る」
縫季は答えなかった。
答える言葉が、なかった。
玄誓は縫季を見ずに続けた。
「お前は、それを変えに来たのか」
「……変えられない」
「知っている」
短い沈黙。
「だが――質は、変えられる」
縫季はそれを聞いて、胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。
玄誓は祭壇に背を向け、歩き出した。
その影が――一瞬だけ、九つに揺れた。
縫季はそれを見送った。
空は青く、高いままだった。
何も降りてこない。
それでも煙は、上り続けていた。
縫季は一歩、祭壇へ近づいた。
供えられた獣骨が、一つ。小さく、古い。
刻まれた文字を、指先でなぞる。
天への問いだ。答えは、来なかった。
正史はこの問いを知らない。
周の史官は、書かなかった。書けなかった。見ていなかった。
縫季は獣骨を、静かに懐へ収めた。
証拠ではない。記録でもない。
ただ――残す。
誰かが問いを刻んだという、その事実だけを。
煙が、細く上り続けていた。
◆
祭壇を離れ、縫季は宮へ戻った。
夜明けの光が、庭に薄く広がっていた。
縫季は廊下の端に立ち、外を見た。
花壇がある。
昨夜、暗がりで見たときと変わらない。だが朝の光の中では、花の色が違って見える。白い花が、淡く輝いている。
足音が聞こえた。
帝辛だった。
衣の裾を少し折り上げ、手に小さな道具を持っている。政務の顔ではない。朝の、素の顔だ。
縫季は廊下から動かなかった。約束を思い出していた。
(……花壇を見せてもらえますか、明朝)(余が手を入れるところを、見るか)
見ている。
ただ、声をかけられなかった。
帝辛は花壇の前にしゃがみ込んだ。道具で土を少しだけ起こす。指で根元を確かめる。雑草を一本、静かに抜く。
急がない。丁寧すぎない。
毎朝続けてきた者の、静かな繰り返し。
縫季の胸の光が、温かく震えた。
コメント
1件
うわあ……「天界が薄い」って表現、すごく好きです。神話が根づいていないから干渉経路が細いっていう世界観の設計、めちゃくちゃ考えられてる。縫季が獣骨を懐に収めるラストも、後世へ「問いの事実」だけを残すっていう記録者の姿勢が染みました。帝辛が花壇の手入れをする朝のシーンも、孤独を知った上での温かさが胸に来ますね……。